2007年6月29日金曜日

電車と時間の流れについて

 阪急桂駅から毎朝八時十五分発の普通電車に乗り、烏丸[からすま]へと向かう。途中、窓外に流れる景色を眺めながら、外で生きている人々の暮らしを思い浮かべたりする。

 オートメーション化された社会では、人間たちはまるでロボットのように無表情に電車に乗っている。女性たち、特に若い女性は、朝は疲れが取れていない顔つきで、目を閉じている方が多いように感じる。それに対して男性、特に年配の男性は、残された時間を惜しむかのように、立ちながらでも読書をする方が多いように感じられる。

 私は周りの目が気になってしまう性質[たち]なので、電車に入ってすぐ奥のほうに向かう。先日、帰りの電車で、奥の方に進んでいったところ、ちょうど目の前に座っていた男性が疲れきったように首を下に向けて眠っていた。起こしては悪いと思ったのだが、後ろから押されたため前につんのめり、ちょっとだけ、足を踏んづけてしまった。(こりゃいかん)と思った瞬間、こちらをにらんだのは、なぜか目の前の人ではなく、隣のオヂさん。(あれ?)と思い下を見てみると、隣の「オ・ヂ・サ・マ」は、満員電車にもかかわらず、隣で寝ている人のところまで、つまり私の足元まで足を投げ出していたのだった。私は「すみません」と小声で言った後、少しく苛立ちを覚えた。

 毎朝、毎夕、車内から必ず目に付く光景がある。それは、桂川の隣のため池で釣りをする人だ。アインシュタインでなくとも、電車に乗っているこの「私」もしくは車内の他の人々と、ため池で釣りをする釣り人との間には、「相対的な時間」が生じていることを知る。釣り人の時間の流れは、明らかに我々より遅く、のんびりとした、平和なものであろう。

 今朝は、最前列の車両に乗った。前方に見えたものは、列車ゲームで見たことのあるようなどこまでも続く線路道。車掌さんに見えている毎朝の風景は、何百人もの人の「時間」を乗せた、相対的な時間の流れの総体とでも言うべきものであることに、気がづいた。