2007年7月31日火曜日

弁当にみる人生哲学

昼時というのは、大変面白い。人それぞれの特徴が見られる。
飲食店に行く人、コンビニ弁当を買う人、社員弁当で済ませる人、愛妻弁当を食べる人。
もちろん、日によっても違うであろうが、その人なりの事情や性格、家庭環境などを思い浮かべると楽しい。

 私が以前働いていた職場では、毎日愛妻(?)弁当を食べる初老の方がいらっしゃった。内容は前晩の残り物なのか、早朝に奥様が作られたものなのかは定かではないが、いずれにせよ、毎日、新聞を片手に、弁当を隠すようなしぐさで、必ず愛妻弁当を食べておられた。
味わっているのかもわからない、美味しいのかもわからない。しかし、確実に言えることは、私が知る限り、その方はこの年齢になるまで、毎日毎日、ずっと愛妻弁当を食べ続けているという事実である。そこに彼の人生の縮図とも言えるものが厳然と立ち現れてくるのである。これこそ愛だな、と私は感じた。

 たったひとつの弁当にさえ、日常を超えた世界が存在するのだ。

2007年7月30日月曜日

本当のカルチャーショック

 私は以前、一年半ほど外国留学していたことがある。留学に行く前は知人から、生活習慣や言葉が違う国に行くと、カルチャーショックを受けるというようなことを言われていた。確かに様々なカルチャーショックがあった。

 ナイフとフォークを使っての食事。肉食中心の食生活。毎日のように肉(特に羊肉)を食べるのには、まいった。肉食は日本人にあわないとつくづく思った。さらに、言葉に関しては、日本語と英語(後にベトナム語も)が混ざって奇妙な言葉を話してみたりすることもたびたびあった。

 面白かったのは、韓国人が多い英語のクラスで、私が発表のとき、誤ってホッチキス(英語ではステイプラー)のことをそのままホッチキスと言ってしまったときのことだ。韓国人のクラスメイトは笑いながら、「違う違う、ステイプラーだよ、シューセー」となぜかホッチキスという言葉を知っていた。後で知ったのだが、韓国でもホッチキスはホッチキスと呼んでいるという。さらに、彼らはなんとつめ切りのこともつめ切りと呼んでいた。しかも、彼らは、それらが韓国語であると思っていたのだ。韓国語の中に外来語として日本語が入り込んでいるということを、日本人の私も、韓国人のクラスメイトたちもそのとき知ったのだった。日本ってすごいなと少し誇らしげに感じたことを思い出す。

 日本から出て外国で暮らすと、日本人がいかにいろいろなことができるかがよく分かる。学校教育の水準がかなり高いと思う。日本人はそれなりのことが、普通にできると思う。自分たちでは気づいていないが、いろいろな教育を受けている。識字能力はもちろん、計算力、判断力など、実際にはかなり高度に教育されているのではないかと思う。なのにそれを応用できない、というのが日本人の性格であると思う。だいたいが遠慮して、「私にはできません」と言ってしまう。
 しかし、一歩外に出れば、字が読めない人、数を数えられない人、何の教育も受けられない人が数え切れないほどいる。そのような人々の中で暮らせば、日本人は様々のことを教えてあげることができるのだ。こういった事実も、日本人ってすごいなぁ、と感じたことのひとつである。

 実は私にとってのカルチャーショックは、日本に帰ってきて起こった。日本は異常に物価が高いのだ。日本は何を買うにも値段が高すぎると感じた。「日本人は日本人同士でだましあっているのではないか?」という疑問がわいた。さらに、日本で流れているCMが金貸しのCMばかりになってしまったことは大ショックであった。ダンスをするオネーサンたちのCMやきれいな目をしたご主人様と犬のCMなど、なぜこんなCMばかりになってしまったのだ?と愕然としてしまった(最近は宝くじのCMをよく見かけるが・・・)。日本はいったいどうなってしまうのか、そんな思いがよぎった。

 いずれにせよ、留学という体験を通して、日本人である自分を見つめ直すことができたと思う。

2007年7月23日月曜日

犀(さい)の角

 お釈迦様が教えた、修行者の心得に「犀(さい)の角」というものがある。私はこの教えを『知ってるつもり』というテレビ番組で初めて聞いたのであるが、次のような一節がある。

「音や声に驚かない獅子のように、網に捕まることがない風のように、水に汚されることのない蓮のように、修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め」(『スッタニパータ』より)

 日常のわずらわしさや人間関係にとらわれ、流されることなく、犀の角のように、自立・自存した者として、ただ独り黙々と精進しなさい、といったところであろうか。

 吉川英二氏の有名な小説、『宮本武蔵』の一場面で、武蔵が神仏にすがろうとする箇所がある。そのとき武蔵は、神や仏にすがることを拒絶し、自立・自存した存在として生きることを決意するのであるが、この武蔵の姿はまさに犀の角のごときものであろう。

 しかし、私たちはお釈迦様でも、武蔵でもない。他人の意見に流され、浮き足立ち、混乱する。目指すべき目的が見えなくなることもある。自分に自信が持てなくなり、不安や絶望をさまようことだってあるかもしれない。それが偽りなき私たちの姿であると言えよう。

 一個の人間、唯一の私として生きるとき、私たちはまさに、この無限に広がる宇宙という地平に投げ出された、無力な存在であるのだ。だからこそ、右往左往しながらでも、一歩一歩、私としての歩む道を踏みしめ、私のみが歩いてきた足跡を刻み、私のみが到達できるゴールを目指すのである。

 お釈迦様は生まれてすぐ、「天上天下唯我独尊(天の上においても天の下においてもただ私独りのみ尊い)」とおっしゃったと云う。これはお釈迦様のみに言われていることであるというよりも、この世界に存するすべての生命体に対して言われている言葉であると考えたほうがしっくりとくる。

 過去現在未来、時代を超え、また宇宙のどこでもなく「ここ」という場所に、ただ独り生きている「私」。この時空を越えた存在者としての一人ひとりの存在こそが、まさに尊いのである。不安や挫折、苦しみを背負いつつも、尊い一個の存在として、今、ここに存在している事実にこそ、目を向けるべきなのではないだろうか。

2007年7月10日火曜日

優しさの本質

 小学生のとき、担任の先生がよく「優しい人になりなさい」と教えてくださっていた。しかし、子ども心に感じたのは、いったい優しいって、どういうことなのか?ということであった。単に人に甘いだけではいけない、八方美人でもいけない、時には厳しさや注意をする勇気も必要だ・・・。未だにこれだ!という明快な答えは出ていない(し、答えが出るようなものではない)が、優しいという漢字とその他の連想から「優しさ」の本質を考えてみた。

 優しいという漢字は人偏に憂(うれ)うと書く。人が何かを憂う気持ち、人が人を憂う気持ちを表したものと言える。つまり、思いやりの心こそ優しさと言うことができるであろう。自分のこと、人のこと、家族のこと、将来のこと、日本のこと、環境のことなど、様々と思い巡らし、これでいいのだろうか、あれはどうなのだろうかと気遣う心こそ、優しさの根源となるのだ。

 親は子どもの将来を憂い、将来立派な大人となるよう躾(しつけ)を施す。躾とは「身を美しゅうする」の意であり、将来自分の子が大人になったとき、人様に恥じない立派な美しい大人となるために思いやりをもって育てる。ではなぜ美しいという漢字が含まれるのだろうか。

 面白いことに、美しいという漢字は「羊が大きい」と書く。丸々と太った羊が立派であり、貫禄があることからこの漢字ができたと聞いたことがある。他にも、「善」や「義」という漢字に「羊」が存在する。善であれば、「羊」とその羊が供えもとしてささげられる「祭壇(さいだん)」を象(かたど)ったものであり、人間が自分を超えた存在や大自然へと向かう謙遜こそが人間の善意の表れであると教える漢字だと考えられる。

 また、義という漢字であれば、飼っている「羊」を飼い主である「我」が担っている姿を象ったものと考えられる。そこから、私たちが自分に関わるすべての事柄や責任を担ってこそ正義が実現するということを教えているのではないだろうか。

 いずれにせよ、私たちが自分の「羊」(=自己の責任、自己の所有物や時間など)をどのように担い(義)、どのように犠牲にし(善)、どのように育てて(躾)生きているのかが問われているのである。

この問いへの私たち一人一人の応答の仕方にこそ、優しさの本質が隠されているのだと思う。

2007年7月3日火曜日

点と線と生きる意味

「線」とは「点」が集まってできるものだ。
一つ一つの「点」が集まって「線」になる。
一つ一つの出来事が集まって道になる。
人生は一つ一つの出来事、一瞬一瞬の出来事がつながって成り立つ。

一つの点だけにこだわれば、そこで道は止まり、
点がバラバラに散らばってしまえば道ではなくなる。

一歩一歩確実に歩む必要はあるが、
一歩一歩に気を取られすぎると道に迷ってしまう。

だから、一つ一つの点に集中しながらも、
まっすぐ進んでいるか、「全体」を見て方向確認する必要がある。
私たちが人生という一本の線を歩いていくために。

線が集まれば「文字」になる。
その文字がさらに集まって「ことば」をなし、「意味」が生まれる。

そこに私たちはいのちを与えるのだ。
自分自身の生を投入し、「自己」という意味づけをするのだろう。

ことばが生き、ことばが動き出し、いのちが生まれるのだ。


そうすれば、生きる。

2007年7月2日月曜日

ごまと銀メダル

 私は子供の頃から「ルパン三世」が好きである。そして、ルパンの絵であればすぐに、しかもかなり上手に描ける自信がある。ただし、ルパンのみで、次元や五右衛門、不二子ちゃん、銭形警部などのいわゆる脇役の絵はまったく描けない。子供の頃、必死に練習したのは、ルパンの絵だけであった。つまり、子供心には、ルパンという「ヒーロー」にあこがれ、脇役にはあまり眼が行き届かなかったと言える。
 ところが大人になって「ルパン」の面白さを考えてみると、その魅力はルパンを取り巻く名脇役たちにあるということに気づいた。ルパンを支える次元たちそれぞれのキャラクター、ルパンを捕まえることに躍起になる銭形警部。この名脇役たちは、それぞれ独自にルパンをも凌ぐ才能と実力を兼ね備えている。彼らがあってこそのルパンなのである。

 大学生のときの恩師がよく、「何事をするにしろ、金メダルではなく、銀メダルを目指してがんばるのが大切だ」とおっしゃっていた。オリンピックが近づくと、やれ金メダルだ、あの人は一番金メダルに近い、今年も金メダル最有力候補などと選手たちがもてはやされる。選手を叱咤激励する意味でも、国民をオリンピックという世界的行事に注目させるという意味でもそれはそれで効果があることなのであろうが、しかし、メダルだけが競技の目的ではないとも言える。オリンピックは「参加することに意味がある」と言われる所以であろう。
 私の大学時代の恩師が銀メダルを目指せといったのは、別にオリンピック選手になれと言っているわけではなく、「分相応の努力をしなさい」と言っているのだ。偉くなるため、ヒーローになるために努力するのではなく、自分自身の夢に向かって精進することにこそ意味があるということであろう。

 ごまを主食として食べる人はいないであろう。ごまはあくまでごまであり、食材の味を引き出す名脇役として食卓を飾るものである。