2007年10月31日水曜日

なくて七癖

妻が我が子に関する重要な癖を発見をした。

「すっきりした後には口をとんがらせる」のである。

食事中の方には申し訳ない話であるが、
この癖を発見したことは赤ちゃんのいる家庭では貴重なことといえる。

我が子にとっては一仕事終えた後の安堵感といった表情であり、
親にとってみれば我が子のおむつ替え時サインなのだ。

子どもにずっと寄り添っている妻の偉大なる発見といえよう(笑)

2007年10月29日月曜日

お風呂

毎晩、必ず風呂につかるようになった。
なぜなら現在は子どもと一緒にお風呂に入るようになったため。

 大学生の頃から、時間的な余裕がなくなったことと、光熱費と水の節約のためもあり、あまりお風呂に入らなくなったが、今は日課として子どもとお風呂に入る。

この時だけが父と子の親子水入らずの時間なのだ(笑)

 面白いことに赤ちゃんの体は水に浮いてしまう。だから湯船につけてもまっすぐにはお風呂に入れない。必ず浮かんでしまうため、「今のうちから風呂の中で歩行練習をさせよう」というパパの企みはもろくも崩れ去る。

 また、目の中に誤って水が入ってしまっても、赤ちゃんは無反応だ。「あ!水が目に入っちゃった!!」などと親の方といえばびっくりして慌てふためくのだが、本人は平気のようである。たぶんおなかの中にいたときはずっと羊水の中にいたわけだから、目に水が入っても痛くないのだろう、と勝手に考えている。

そんなわけで、

「パパだって お前を目の中にいれても 痛くないぞぉ!」と風呂で叫んでみたり(笑)


体が温まってくると赤ちゃんは寝てしまう。それを見てパパもついウトウト。
頃合を見てママが二人だけの至福のときに終わりを告げる。

こうして我が家の一日が過ぎていくのであった・・・。

2007年10月28日日曜日

新お父さん

いよいよ子どもが妻の実家から帰ってきた。
そのため子供用のベビーベッドを組み立てたが、これにはかなりの時間がかかった。
説明書を見ると・・・ふむふむ・・・

「必ず二人で組み立ててください」と書いてある。

妻は子どもに付きっきり。一人でやるしかない(泣)

苦節三時間かけてやっとベビーベッドができあがった。

世の「新お父さん」たちは子どものために同じようにベッドを組み立てたり、おむつを変えたり、お風呂に入れたりしているに違いない・・・。そんな思いがよぎる。

がんばれ!新お父さんたち!!

2007年10月26日金曜日

将棋

私は週に1、2度ほど知り合いの方と将棋を打っている。

相手をしてくださる方は、アマチュアながら段位を持っておられる方で、私自身は「先生」と呼んでいる。

私が先生に勝たせていただいたことは何十回と打った中で本の数回だけ。しかも先生が「これを見抜けるか」とばかりに、わざと優しい手を打ってくださったときだけだ(泣)

元来私は相手もいなかったし、毎週のように将棋を打つことなど無かった。打つ手も穴熊一本だったが、先生に教えてもらうようになってからは色々な手を教えていただいて、打っている。先生の教えとしては、何度も打つこと。それによって棋力が徐々に上っていくのだという。

毎回先手を打たせていただいても、また、序盤で良い様に進めることができても終盤で逆転負け(泣)

一つ一つの駒が持つ力をまだ十分に引き出せていないと指摘された。

「吹ーけーばぁ 飛ぶよぉな、将棋の駒に~♪」と口ずさみながら、今週も成り切れない「歩」として吹き飛ばされるか(笑)

一ヶ月検診

うちの子供の一ヶ月検診があった。内容はまったく問題なし。

親としては、容姿端麗、知能優秀、スポーツ万能、温厚篤実などなど、子どもに期待をしてしまうが、それでもやはり、親としての一番の願いは安全第一ならぬ健康第一である。

わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。

2007年10月25日木曜日

悩み

今私には一つの悩みがある。

毎晩風呂に入るとき、必ず体を洗うタオルをかけるために買ったフックが取れていることである(笑)

毎回、風呂に入るときにひっつけて、次の日にはまた取れてしまっているのだ。

最初に購入したのは、普通のプラスチックのフック。しかしこのフックはタオルが少しでもぬれているとまったく使い物にならなかった。
ピタッ、ポテ。
ピタッ、ポテ。
ピタッ、ポテ・・・
この繰り返しであった(泣)

そこで今回、新しくフックが下にスライドして吸着面内の空気がしっかりと圧縮されるタイプのものを購入した。このフックの場合、プラスチックのものよりも高価であり、それだけの効果を期待したのであるが、喜んだのもつかの間。次の日には取れてしまっていたのだ。それでも出したお金の分くらいは働いてもらおうと、毎日取れるのはわかっていても使っている現状。

これはもちろん、風呂場の壁の材質によるところが大きい。
しかしこればかりはどうしようもないので、今では風呂のときフックを付けることが私の日課の一つとなっている。

2007年10月23日火曜日

家庭を築く

 河野さんという知り合いの夫婦が11月の新築予定で家を建てている。
ところがペンキを塗ったり、使う材木を買ったりと、自分たちで作業をしているらしい。

 家を建てるというと、私などは業者さんに頼むものだとばかり考えていたが、どの程度までかはわからないが、河野さん夫婦は自分たちで色々と工夫して建てているようだ。

 この前久しぶりに会ったときも、家に使う木材を見に行ったり、庭に使う大きな傘(?)を買ったりりしていた。実際に「建材市場」なるホームセンターでは、アウトレット建材(国内メーカー・海外メーカー等で大量生産により在庫になってしまった商品、展示品、多少のキズのある商品で一般市場では販売しない商品)というものが安価で売られていた。自分で家を建てることができるなんて、考えたこともなかった。高の夫婦のパワーはすごい・・・と感心してしまった。

 もちろん、経済的な理由もあると思うが、忙しい時間をぬって、自分たちで汗を流して家を建てるなんて本当にすごいことに思える。さらにおめでたいことに、奥様がご懐妊されたと聞いた。待ちに待ったご懐妊、本当におめでとうございます。
あまり無理をせず、元気な子どもを生んでくださいね。家が建ったら遊びに行きます。

2007年10月21日日曜日

季節の変化

2~3週間前から、町を歩いていると金木犀(きんもくせい)の本当にいい香りがしている。
金木犀の香りがすると、自然に秋が来たと感じられ、日本に生まれてよかったなと自然に感じる。

大学生のときにもぐりこんだ国文学の授業で、古今和歌集を教えていただいたことがある。
その中で、特に感動したのが、小野小町の有名な次の歌の解説であった。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身 世にふる ながめせしまに

通常この歌は、小野小町自身が「花の色(私の容貌)は、長い雨(ながめ)が降っている間(梅雨の季節)に、移り変わってしまったなぁ」という内容だと教えられているが、本来的にはこれでは足りないといった内容であった。
つまり、小野小町は恋人の気持ちを詠んでいるというのだ。

「私が歳を取り、容貌も変わってしまったせいで、あなたの私への想いも(別の若い女性)に移っていってしまったわ」という含意があるという。

もちろんこの歌を単なる色恋沙汰が詠まれている歌だと考える人はいないと思う。人の心も季節も移り変わっていくものであり、その中に人生の機微とでもいうべきものがあるのだということが表現されている。しかもたった何十文字かの歌の中で、この世界の森羅万象に通じる事柄が歌いこまれているということは本当に驚愕に値する。

四季折々の花が咲き、移り変わりがある。
この世界に生まれてきて、よかった。

2007年10月18日木曜日

信じる心

寺めぐりで訪れた伏見稲荷大社で感心したことがある。

それは、今まで当たり前のように思っていた稲荷神社のトレードマークの狐が白色で表されていたことである。稲荷神社の狐は実は白い狐であり、この場合、白いとは「透明」であることを表しているという。つまり、神の使いとしての狐は目に見えない存在なのだ。そう、つまり信心の対象としての神の使いなのである。



目に見えないものを信じるということは、普通に考えてみれば、ありえないことである。特に現代では目に見えないもの=存在しないものという図式となっている。



これはもちろん宗教的な見地を除けば当たり前のことなのかもしれない。しかし、以前書いたように数という概念は、実際には目の前に存在していない数という抽象概念を通してものを考えることであり、それを通して得られた結論を現実世界において具現化するというようなプロセスをとっているように思う。



ところが目に見えないものを信じているというのは、やはり日常茶飯事に行われている出来事でもあるのではないだろうか。



学校の友達に会う、会社の同僚と食事に行く、家族団らんのときを過ごす。当たり前のことのように考えられる日常において、私たちは無意識のうちに、

友達は自分を裏切らない、だって友達だから

 とか、

レストランで出される食事には毒は入っていない、だから安心して食べられる

 とか、

家族との幸せのときが続く、だって愛し合っているから

と信じている。しかし、いつ何時何が起こるかわからないのがこの世界の現実ではないだろうか。もちろん、心配ばかりしていたら逆にノイローゼにでもなってしまい、悪循環ではあるが、一瞬一瞬、実は私たちは不思議なほど安心して毎日を生きている。

これこそ、本当の意味での信じる力なのではないだろうか。



日常において当たり前のように私たちが持っている信じる心は、人間の本質的な在り方ではあるが、この世界を超えていると言って良いほど、不思議なもののように思う。



本当にこの世界は驚きに満ちているなぁ。

2007年10月17日水曜日

1+1=2?

人間というものは概念化ができる存在者と言える。
事物の名前を付けたり、事物の種類(類概念)を定義したりすることで、概念化している。


ところが実際に存在するものを現象論的に捉えると、個々の存在はまったく別存在であると考えることができる。たとえば、小学校の算数の授業などで、りんごが何個あるか、とか、えんぴつが何本あるか、などの問いに対して、子どもたちには数の概念がないため、物を抽象化して扱う算数を理解することは本当に大変なことなのではないかと思う。実際に私自身もそんな生徒の一人だったように思う。


赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークがある。それらはチョークという「モノ」としては同じものであるが、色が違うので赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークはまったく別物だと思えてしまうのだ。つまり、赤いチョークと白いチョークは私にとっては同じものではない。存在としては一つ一つが独立して存在して、一緒くたなんかにはできるわけがない。

だから、赤いチョークが2本、白いチョークが4本あったとしても、それらのものは合計6本にはならないはずなのだ。あくまでチョークという物を抽象化(数値化)して捉えているに過ぎない。だから、算数で行う計算などはすべて、一人ひとりの頭の中の世界で起こっている脳内現象であり、現実世界で起こっている現実ではないと言える。

まぁそんな屁理屈をこねていた私は、もちろん算数が大の苦手であったが、後になって数の概念を人に教えるときには、役に立ったようにも思う。

ただ、大学生になってびっくりしたのは、哲学では抽象的な概念を具体的に考える能力が必要だと教わったときだろうか・・・(泣)

2007年10月14日日曜日

心に残った言葉

子どもが生まれた次の日の夜、病院から私が帰ろうとしたときのこと。
生まれたばかりのわが子を抱きしめながら、妻が次のようなことをつぶやいた。

「子どもを捨てる親の気持ちがわからない」

どういうつもりで妻がこの言葉をつぶやいたのかはわからないが、疲れていた私はなんとなく聞き流して帰宅したように思う。
それから何日か経って、妻がつぶやいた言葉が時折思い出される。

娘時代を卒業し、結婚して妻となり、子どもを生んで母親になった瞬間の女性の実感を現す、そんな言葉のように思う。

2007年10月10日水曜日

2500年前は古い?(2)

 以前にも引用したが、紀元前5世紀頃にエンペドクレスという人物が、火、土、水、空気といった自然界を構成する要素のようなものが、「愛」(引力)と「憎しみ」(斥力)によって離合集散(ひっついたりくっついたり)することによって成り立つと考えたと言われる。2500年前にすでにそのような思想があったと知ったときには本当にびっくりした。

 また、現在では当たり前になっていることであるが、デモクリトスという人物は原子論を唱え、この世界の構成物質は火、土、水、空気などではなく、「原子(アトム)」なのだと教えたとされる。もちろん、彼の説は長い間忘れられていたが、最近それが正しかったことが明らかとなり、彼が名づけた「原子(アトム)」という名称が使われるようになったらしい。

 本当に先人たちの知恵には驚かされる。

2007年10月9日火曜日

2500年前は古い?

古代史を学ぶと驚かされることがたくさんある。

紀元前五世紀頃には、現在の思想の根幹となる思想が多数現れてきたと思われる。
仏陀の登場、ギリシャ哲学の誕生、ピタゴラスに代表される数学の誕生、中国における老荘思想の誕生、ユダヤ教の成立などすべて紀元前五世紀前後に集中しているそうだ。

2500年前と言えば、まだ日本では有史前の縄文時代。そんな時代に先人たちは現在の私たちでさえ及ばない程の思索をしていたと言える。本当に驚くばかりである。

私が大変感動したのは、ピタゴラスが発見したとされる次の定理だ。

1から順に2増える奇数の和はその奇数の個数の平方に等しいというもの。要するに奇数を足していった和は、その奇数の数を2乗したものというものである。

1=1の2乗(奇数1個なのでその2乗。つまり1) 
1+3=2の2乗(奇数2個なので2の2乗。つまり4)
1+3+5=3の2乗(=9)
1+3+5+7=4の2乗(=16)
1+3+5+7+9=5の2乗(=25)
    ・
    ・
    ・
    ・
このように続いていく。

本当に驚くばかりである。

2007年10月7日日曜日

日本語の助詞

日本語はすごいと思う。日本語独特のものとして、「て」「に」「を」「は」などと言われる助詞をあげることができるが、特に「が」や「は」などで文章の主語を表し、それでいて英語の関係代名詞のような働きもするところなどは本当に面白い言語だと感じる。





たとえば、


「彼は今日、上司が愛犬のポチがとてもかわいいんだと自慢するのがいやで、別のことを考えていた」


などの文章を考察すると面白い。
(ちなみに上の文章は強引に助詞「が」を3度使用してみた)




そのまま英語に訳すのは難しいように思う。英語では主語と動詞をはっきりさせなければならないからだ。訳すとすれば次のようになるのだろうか?


Today, he thougt of other things because he didn't like to hear his boss talking proudly about how cute his pet 'Pochi' was.





なにせ英語の場合であれば、関係代名詞や動詞がごちゃまぜになってしまうし、主語を何度も言わなければならない。




それを日本語では簡単に言うことができる。
日本語は本当に便利な言語だと思う。

2007年10月5日金曜日

結婚契約

 日常生活の中には、この世界を超えた出来事が、日々当たり前のことのように起こっている。卑近な例を挙げると、たとえば、「結婚」がそうであろう。


 結婚の定義を間単に言ってみると、世界に何十億といる人の中から、たった一人の異性を選び、生涯の伴侶とし、社会の最小単位である家庭を築くことと言えようか。

 これを実存的な見地から捉えてみると、この世界における唯一の存在である一人称の「私」が、まったく別存在の唯一の「私」である異性を、他の存在者を排除して、二人称「あなた」として受容し、排他的に愛することによって、さらなる存在者(子)をこの世界に生み出し、まったく新しい存在論的な地平を切り開き、創造していくという唯一性と排他性、そして創造性の入り混じった事柄であると言えよう。

 もちろんここで言う結婚概念は、認識論的に言えば、意志([ラ]Intentio)を持っている人間存在にのみ可能となる契約概念であるが、しかし、雌雄の性別を持つ動植物といった存在者も含め、二つの存在者の間でなされうるものであれば、やはり同様の事柄が言い得るのかも知れない。



 いずれにせよ、結婚することによって色々とこの世界が違って見えるものである(笑)

2007年10月4日木曜日

ジェニファーちゃん(?)

今日はジェニファーちゃんを紹介しよう。

ジェニファーちゃんとは会社に棲みついているクモのことである。ちなみにジェニファーというのは社長の命名である。(ただし性別不詳である[笑])

いつのまにかわが社のアイドルになっている。

私がかわいそうに思い逃がしてあげようと捕まえると、wさんから、ストップがかかった。クモは家の守り神として大切にするものなのだという。確かにクモというのは害虫を捕まえてくれたりする。さらにこの手のクモは巣も張らなくて部屋も汚れないそうである。

ということで、ジェニファーちゃん、今日も楽しく遊びまわれ!

2007年10月2日火曜日

微笑み

わが子が生まれて10日ほど経ったが、これまで、まだわが子の微笑を数回しか確認していない。

人間というものは、生まれてすぐ本能として笑うものとばかり考えていたが、そうではなくて、赤ちゃんは笑うことを身につけていくのだという。共存本能(?)とでもいったらいいのか。


「あ、赤ちゃんが笑った!」



赤ちゃんの笑顔を見て、パパの顔も思わずほころぶ。



赤ちゃんが笑ったのが先か、社会的に笑顔を身につけていったのが先か。



う~ん。実存的問いだ。