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2009年12月9日水曜日

非日常

私の恩師がよく「日常の中の非日常にこそ本質がある」というようなことをおっしゃっていた。

本質から具体的な現実が現れてくるし、日常の中の非日常性こそが私たちの生きる原動力となる。

日々の生業(なりわい)の中に、時折、非日常の出来事が顔を出し、限られた現実世界を新しいものに変えてくれる。もちろん、世界の方が変わったのではなく、非日常的な出来事を経験することで、私たちの世界への態度や認識が、180度変換せしめられるのであるだろう。


「パパ、おかえり」と我が子が帰宅時に玄関に立つ私のところへ走ってくる日々の出来事も、私という主体者が生きる世界の上で日常的に起こっている出来事に過ぎず、帰宅が遅くなり我が子が走ってこない非日常的な出来事を経てこそ「有難い」と感じるのだ。「当たり前」という自分の感覚に刻まれた日常性を打ち崩し、新たな日常性を生み出すのは、まさにこういった非日常的な体験があってこそと言える。

「日常の中の非日常性」

簡単なようで難しく、難しいようで簡単な理(ことわり)。

2009年1月10日土曜日

クレープに関する哲学的考察1

クレープに関する哲学的考察をしてほしいという読者からのご要望があったので、稚拙ながら考察を行ってみた。(もちろん真面目に読んでいただく必要性はまったくないのでその点ご了承願いたい)

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クレープなる洋菓子を食するという場合、われわれはいかなる志向性をもってそれを食そうとしているのであろうか。

第一に、菓子というものは、抜本的には生命維持に欠かせない「食事」という様相よりもむしろ、生命維持に関する欲求(食欲)が満たされているとき、もしくは生命を脅かされる不安や恐怖といったもののない安定した精神状態のときに志向されるという様相を呈している。

したがって、クレープなる洋菓子を食したいと志向する者は、洋菓子、和菓子を含め、菓子一般に言い得ることではあるが、第一に生命の危機に瀕していない安心立命の状態にあるということが欠かせない条件となるであろう。

(続く)

2009年1月9日金曜日

クレープに関する哲学的考察2

第二に、われわれが何かを「食したい」と欲する時には、その存在者が生きてきた中で食されたもしくは食すことができなかった何らかの「前例」を元に、具体的な食品が志向されるものと考えられる。

たとえば、子どもの頃にお好み焼きという食品に対する愛着を持った経験のある者であれば、「お好み焼き」という具体的な食品に対する志向性を有するのであり、子どもの頃に「バナナ」という食品を食することができず、一度は食べてみたいという志向性を有する者であれば、「バナナ」という具体的食品を食したいと志向するものであろう。

つまり、われわれがもっている食物に対する志向性というものは、具体的な食品に対する志向性であるとともに、個々の存在者の実経験に基づいて構築された千差万別の志向性であるということが結論付けられる。

要するに、クレープを食したいと感じるのは、個々人の自由の問題なのである(笑)

2009年1月8日木曜日

クレープに関する哲学的考察3

以上の二点より導き出される結論としては、

まず抜本的に基本的な食事が足りていることが重要であり、さらに実経験に基づいたクレープという洋菓子に関する某かの見聞(情報)が必要となる。


そういった意味では、まず「クレープ」という洋菓子そのものが万民によって食されたいと志向されるために、日本社会の状態が、平和で食の安全が保障されている必要があり、そういった社会的土台の上に、クレープという洋菓子のおいしさを知っていただくことがクレープ店を営むわれわれにとっては最重要課題となるのである。

そこで私個人ができることはと言えば、一所懸命においしいクレープを来てくださったお客様に差し出し、実体験としてのクレープのおいしさに触れていただくことと、近隣の皆様と協力して平和な町を作り上げていくことと言えるのではないだろうか。


う~ん。考察って難しい(泣)

2008年12月17日水曜日

対話

妻が学生時代に哲学入門として勉強したという『哲学の謎』(野矢茂樹)を最近読んでいる。

この本は自己の中の二者による対話形式で書かれ、ある命題に対して止揚(アウフヘーベン)して書かれている。いわば、自己の中の葛藤を対話という形で現すことで、問題提起をより具現化するといった方法をとっている。

もちろん第三者である読者は介入できないため、内容的なことに関して読者は一方的に受け取ることしかできず、異論を唱える余地がないのであるが、様々な示唆に富んだ本となっている。


いずれにせよ、思想の違う人々による対話の必要性を感じさせる良い本であると思う。

2008年10月31日金曜日

プネウマ?3

プネウマという言葉は、日本語に訳されるとき、「風、大気、息、魂、霊」などと色々な言葉に言いなおせる。つまり、日本語では言い切れないほどの概念を含んだ言葉なのである。

それを一言で「魂」とだけ訳してしまうと、まったく見当違いの意味になってしまう。

特に哲学的命題を表す概念である場合、翻訳が間違ってしまうと、まったく核心からはずれたことを思索する結果となってしまうだろう。

前提が偽(間違い)であれば、結論も偽となる。


そういった意味で、普段何気なく遣っている言葉というものも、言葉を交わす2者間において、まずは共通の概念を構築することが大前提となるのであろう。

2008年10月20日月曜日

プネウマ?

妻が、「恋の空騒ぎ」という番組の出演者の体験を基に作成されたドラマとやらを見ていたので、何となく聞いていたところ、出演者がプネウマという言葉をしきりに発していた。

「プネウマとはギリシャ語で魂のことよ」みたいに。

どうもこの番組は、哲学的な内容を扱っているらしい。だからプラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ、サルトルが云々、というくだりがちょくちょく出て来た。私自身はドラマにはあまり興味がなく、側耳を立てて聞いていただけであるので、詳しくはわからないが、何か哲学(愛知)を誤解させる内容だなあと感じた。


特に問題となるのは、は、プネウマを単に「魂」とだけ訳していたことである。

(続く)

2008年8月1日金曜日

髪の毛2

いったい、人類はいつから髪が長くなったのであろうか。
もちろんそれは、有史以前のことと考えられる。

まず言語学的に考えて、「髪」という言葉がはっきりと存在している時代がいつ頃かと考えてみると、たとえば紀元前5世紀頃に成立していた旧約聖書の中の「サムソン」の如き神話的な話などが思い浮かぶ。この話は『サムソンとデボラ』という映画にもなっているからご存じの方もいるかもしれない。

生まれてからずっと髪の毛を切らずにいるサムソンにはすごい力が宿っていたが、髪を切ったとたんにその力がなくなってしまったなどという記述があるのだが、このことから、この物語が語られるようになった時代、つまり、数千年前にはすでに「髪」という言葉が存在していたことが分かる。

ということは、既に数千年前には髪と他の体毛とがはっきりと区別されていたということでもある。つまり、髪の毛というものが、「概念化」されているのだ。

また、エジプトで発掘されているツタンカーメンなどのファラオ(王)たちのマスクや壁画などには、はっきりと髪の長い人々が描かれている。

そういった意味では、やはり人間というものは、他の生命体に比べ脳が発達したことにより、頭部を保護するために頭部の体毛のみが異常に発達し、髪が伸びるようになり、それが「髪」という概念となったと言える。

そして、髪が長いという人間の特徴こそ、人間が知性をもつようになったことの外面的な現れでもあると考えられる。


夏になるとなんとなく邪魔臭く感じる髪の毛ではあるが、人間の「人間らしさ」を現す重要な証拠でもあるといことを改めて認識したように思う(笑)

2008年7月31日木曜日

髪の毛

最近髪が長くなってきたので、散髪に行きたいなぁと感じている。

いつ行こうかなどと考えながら通勤の電車の中を何気なく見渡すと、夏川某(なにがし)という女性が指を「レ」の字にしている広告が目に留まった。

(この女性[ヒト]髪が長いなぁ。)などとぼんやり考えていたのであるが、ハタと驚いたのは、人間は体毛が薄い分、髪の毛が異常に長く、しかもずっと伸び続けるという事実である。

他の動物の中には、もちろん馬のようにたてがみが長い動物もいるのであるが、体毛がほとんどなく、頭の毛だけが異常に発達しているという不自然な生き物は人間しかいない。

これを進化の過程から考えてみると、人間に一番近く知能のある、ゴリラのような類人猿でさえ、髪の毛はさほど長くはない。ところが、人間だけは異常に長い。体毛といったものが、生命活動において重要となる部分を保護する機能があると考えるならば、人間の髪が長いのは、まさに頭こそが唯一守るべき箇所として突出していることを顕しているのかもしれない。

2008年7月3日木曜日

自己防衛

今朝のズームイン朝だったと思うが防犯(自己防衛)についての特集がやっていた。

最近の人、特に女性は、イヤホンをして大音量で音楽を聴くため、背後から声をかけられたりしても気づかない人が多く、大変危険であるということがレポートされていた。

私は鼻炎持ちで耳があまり良いほうではないため、イヤホンを使うとさらに聴力が落ちるような気がして極力使わずにいる。また、大音量で音楽を聴くのも避けている。

そのためイヤホンで音楽を聴く人のことはよく分からないが、中には夜道などは独りで歩くのが怖いため、大きな音で音楽を聴いて気を紛らわしているという人が紹介されていた。

怖さを紛らわせるためとはいえ、現実の危険を招く怖れがあるというのも事実。闇を怖れるという人間存在そのものの原始的な怖れの本能といったは変わらないものの、科学技術の進歩に付随してそれに伴う反比例的な危険性が増すものであるという現実は、現代を生きる人間の悩みであり課題と言えるであろう。

2008年4月10日木曜日

ルネサンス

最近読んでいる本に塩野七生著『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)がある。
この本はこの四月に文庫化されたもので、たまたま本屋に寄った折に目に付き、即買いしてしまった本である。

タイトルの通り、ルネサンスについて書かれているのであるが、私がこの本に興味をもったのは、以前、知人から、「今なおルネサンスは完結していない」という命題を聞いてからである。

古代の再興として捉えられているルネサンスではあるが、考えてみると人間の「自由」と「束縛」という二者は、歴史を通して、交互にあるときは発展し、あるときは衰退しという浮き沈みを繰り返しながら進んできた。近代に入り、資本主義、自由主義が台頭し、人間が自由に生きることが保障されるに至るまでには二回の世界大戦を経なければならなかった。

しかし、今日会見したダライラマが暴力反対を訴えておられたように、未だに世界では束縛と暴力のうちに生きている人も存在する。

ルネサンスとは何であるのか?という問いは、人間とはどうあるべきか?という実存的な問いとともに、考えていかなければならない問いであるように思われる。

2007年11月21日水曜日

心はとても面白い。心が付く、色々な言葉は本当にたくさんある。


和語であれば、真心、下心、二心、心意気、心得など。
漢語であれば、無心、関心、感心、決心、乱心、一心、専心などがある。


それだけ奥深く、捉えようのないものだからであろう。


上記した言葉の中でも、面白いのは心に数が引っ付いている場合だろうか。日々の生活の中では特に心が様々に分岐してしまう。


二心 心が二つに分かれている様子。二兎を追うものは一兎も得ず・・・


一心 心が一つのものに集中している様子。一心不乱になると周りが見えず・・・

毎日の生活では私自身の心もこのような心の状態なのではなかろうか。
しかしたとえば、仏教において一番目指されるのが

無心(心が空っぽになり執着から開放されること。)


だとすると、まるで心が無いことが良いことのようにさえ評価されかねない。


私が子供の頃には子どもたちが無関心になったと問題視されていた。


人間の「真心」(本当の心)とは一体なんなのだろう?と考えてしまう(笑)

2007年11月7日水曜日

忘れること

私は元来忘れっぽい。
小さい頃から忘れ物もひどかった。

最近では脳内トレーニングのようなものが流行っていて、すごいなぁ、とは感じるが、人間にとって忘れることも大切なことのように思う。

夜見る夢というのは記憶の整理なんだと聞いたことがある。
眠っているときに脳が記憶を整理整頓し、今日一日の記憶が長期記憶と短期記憶の両方に振り分けられるため、夢を見るのだそうだ。

今日一日自分がしたことをしっかりと清算して、また新たに明るい一日である明日を生きていくのだと思う。

2007年11月1日木曜日

ボランティア

ボランティア(Volunteer)という言葉は、ラテン語のVoluntas(意志)から派生した言葉で、直訳すると「自らの意志を持つ者」ということになる。



もっと簡単に言ってしまえば「自ら好きなことを進んでやっている人」ということになるだろうか。




大学一年生のとき、ひょんなことから、とある小さなボランティアサークルの主幹をさせられたことがあった。それから色々とボランティアとは何か考えるようになったと思う。


学生のときは、何かボランティア的なことをすることがとても正しいことであるかのように考えて、障害者の介護や老人の介護に行った記憶がある。自分がやっていることは正しくて良いことなのだと過信していたように思う。


 お年寄りや体の不自由な人を助けることはもちろんボランティアであるし、海外ボランティアなども今はある。
 ただ、気づいたのは、間違ってもボランティアとは悪いことが起こるのを期待することではないということだ。ボランティアサークルをやると、何かからだの不自由な人はいないか、とか、自分を必要としている人はいないだろうかなどと自分よりも劣っているもの、自分よりも弱き者をさがしていたように思う。裏を返せばそれは、何か悪いことが起こらないかと期待することでもあったのだ。



 もし悪いことが起きたときに自分が何者かであるかのように人を助けたりすることがボランティアであれば、悪いことが起こるように、もしくは困っている人がいるように願うことがボランティアの本質になってしまう。つまり単に自分の格好良いところを見せたいだけに過ぎない。


 そうではなくて、自分の周りにいる人をありのままに受け容れ、障害者だとか国籍だとか老若男女だとかを意識せず、仲間として自然に愛する意志を持つことがボランティア的生き方なのだと思う。

2007年10月18日木曜日

信じる心

寺めぐりで訪れた伏見稲荷大社で感心したことがある。

それは、今まで当たり前のように思っていた稲荷神社のトレードマークの狐が白色で表されていたことである。稲荷神社の狐は実は白い狐であり、この場合、白いとは「透明」であることを表しているという。つまり、神の使いとしての狐は目に見えない存在なのだ。そう、つまり信心の対象としての神の使いなのである。



目に見えないものを信じるということは、普通に考えてみれば、ありえないことである。特に現代では目に見えないもの=存在しないものという図式となっている。



これはもちろん宗教的な見地を除けば当たり前のことなのかもしれない。しかし、以前書いたように数という概念は、実際には目の前に存在していない数という抽象概念を通してものを考えることであり、それを通して得られた結論を現実世界において具現化するというようなプロセスをとっているように思う。



ところが目に見えないものを信じているというのは、やはり日常茶飯事に行われている出来事でもあるのではないだろうか。



学校の友達に会う、会社の同僚と食事に行く、家族団らんのときを過ごす。当たり前のことのように考えられる日常において、私たちは無意識のうちに、

友達は自分を裏切らない、だって友達だから

 とか、

レストランで出される食事には毒は入っていない、だから安心して食べられる

 とか、

家族との幸せのときが続く、だって愛し合っているから

と信じている。しかし、いつ何時何が起こるかわからないのがこの世界の現実ではないだろうか。もちろん、心配ばかりしていたら逆にノイローゼにでもなってしまい、悪循環ではあるが、一瞬一瞬、実は私たちは不思議なほど安心して毎日を生きている。

これこそ、本当の意味での信じる力なのではないだろうか。



日常において当たり前のように私たちが持っている信じる心は、人間の本質的な在り方ではあるが、この世界を超えていると言って良いほど、不思議なもののように思う。



本当にこの世界は驚きに満ちているなぁ。

2007年10月17日水曜日

1+1=2?

人間というものは概念化ができる存在者と言える。
事物の名前を付けたり、事物の種類(類概念)を定義したりすることで、概念化している。


ところが実際に存在するものを現象論的に捉えると、個々の存在はまったく別存在であると考えることができる。たとえば、小学校の算数の授業などで、りんごが何個あるか、とか、えんぴつが何本あるか、などの問いに対して、子どもたちには数の概念がないため、物を抽象化して扱う算数を理解することは本当に大変なことなのではないかと思う。実際に私自身もそんな生徒の一人だったように思う。


赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークがある。それらはチョークという「モノ」としては同じものであるが、色が違うので赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークはまったく別物だと思えてしまうのだ。つまり、赤いチョークと白いチョークは私にとっては同じものではない。存在としては一つ一つが独立して存在して、一緒くたなんかにはできるわけがない。

だから、赤いチョークが2本、白いチョークが4本あったとしても、それらのものは合計6本にはならないはずなのだ。あくまでチョークという物を抽象化(数値化)して捉えているに過ぎない。だから、算数で行う計算などはすべて、一人ひとりの頭の中の世界で起こっている脳内現象であり、現実世界で起こっている現実ではないと言える。

まぁそんな屁理屈をこねていた私は、もちろん算数が大の苦手であったが、後になって数の概念を人に教えるときには、役に立ったようにも思う。

ただ、大学生になってびっくりしたのは、哲学では抽象的な概念を具体的に考える能力が必要だと教わったときだろうか・・・(泣)

2007年10月10日水曜日

2500年前は古い?(2)

 以前にも引用したが、紀元前5世紀頃にエンペドクレスという人物が、火、土、水、空気といった自然界を構成する要素のようなものが、「愛」(引力)と「憎しみ」(斥力)によって離合集散(ひっついたりくっついたり)することによって成り立つと考えたと言われる。2500年前にすでにそのような思想があったと知ったときには本当にびっくりした。

 また、現在では当たり前になっていることであるが、デモクリトスという人物は原子論を唱え、この世界の構成物質は火、土、水、空気などではなく、「原子(アトム)」なのだと教えたとされる。もちろん、彼の説は長い間忘れられていたが、最近それが正しかったことが明らかとなり、彼が名づけた「原子(アトム)」という名称が使われるようになったらしい。

 本当に先人たちの知恵には驚かされる。

2007年10月9日火曜日

2500年前は古い?

古代史を学ぶと驚かされることがたくさんある。

紀元前五世紀頃には、現在の思想の根幹となる思想が多数現れてきたと思われる。
仏陀の登場、ギリシャ哲学の誕生、ピタゴラスに代表される数学の誕生、中国における老荘思想の誕生、ユダヤ教の成立などすべて紀元前五世紀前後に集中しているそうだ。

2500年前と言えば、まだ日本では有史前の縄文時代。そんな時代に先人たちは現在の私たちでさえ及ばない程の思索をしていたと言える。本当に驚くばかりである。

私が大変感動したのは、ピタゴラスが発見したとされる次の定理だ。

1から順に2増える奇数の和はその奇数の個数の平方に等しいというもの。要するに奇数を足していった和は、その奇数の数を2乗したものというものである。

1=1の2乗(奇数1個なのでその2乗。つまり1) 
1+3=2の2乗(奇数2個なので2の2乗。つまり4)
1+3+5=3の2乗(=9)
1+3+5+7=4の2乗(=16)
1+3+5+7+9=5の2乗(=25)
    ・
    ・
    ・
    ・
このように続いていく。

本当に驚くばかりである。

2007年10月5日金曜日

結婚契約

 日常生活の中には、この世界を超えた出来事が、日々当たり前のことのように起こっている。卑近な例を挙げると、たとえば、「結婚」がそうであろう。


 結婚の定義を間単に言ってみると、世界に何十億といる人の中から、たった一人の異性を選び、生涯の伴侶とし、社会の最小単位である家庭を築くことと言えようか。

 これを実存的な見地から捉えてみると、この世界における唯一の存在である一人称の「私」が、まったく別存在の唯一の「私」である異性を、他の存在者を排除して、二人称「あなた」として受容し、排他的に愛することによって、さらなる存在者(子)をこの世界に生み出し、まったく新しい存在論的な地平を切り開き、創造していくという唯一性と排他性、そして創造性の入り混じった事柄であると言えよう。

 もちろんここで言う結婚概念は、認識論的に言えば、意志([ラ]Intentio)を持っている人間存在にのみ可能となる契約概念であるが、しかし、雌雄の性別を持つ動植物といった存在者も含め、二つの存在者の間でなされうるものであれば、やはり同様の事柄が言い得るのかも知れない。



 いずれにせよ、結婚することによって色々とこの世界が違って見えるものである(笑)

2007年9月11日火曜日

細胞から見る共生

 細胞というのは、面白い。所謂生命体と呼ばれるものには必ず細胞が存在する。生命体とは細胞の集合体なのである。大学院生のときに、他学科の教育免許を取るため履修していた生物の授業で、DNAやRNAなどのことについて学んだ。RNAとDNAではDNAの方が構造的にしっかりしていて、エイズウィルスやインフルエンザウィルスは基本的にRNAであるため、安定せず、よく変異を繰り返すため特効薬を作るのが難しいなどの話を聞いた。

 また、人間が生まれてくる過程で、おなかの中の赤ちゃんは生物の進化の過程をたどって最終的に人間として形成される。そして人間のDNAは長い間の進化(と言っていいのかわからないが)の過程で、色々な生物の遺伝子やウィルスに感染することで長くなったなどの話も聞いた。

 まだ地球に微生物(バクテリア)しか存在していなかったとき、互いに相手を食べて消化していたのであるが、あるとき、共生が始まったとも聞いた。つまり、取り込んだ他の微生物がそのまま体内で生き続けることによって、多細胞生物が誕生したという。人間の体内で言えば、人間とは違うDNAを持つミトコンドリアなどがその良い例と言えよう。まったく別の生物同士が共生することで、多細胞生物になり、進化してきたというのだ。その証拠に、動植物などの生命体は必ず同じような構造を持つ細胞を持っている。つまり、細胞という生命体が人類や動植物などの生命体の起源とも言えるのだ。(c.f.細胞説)

いずれにせよ、私たちが共に生きているということはこの世界の本質でもあるということを教えられたように思う。