2007年8月30日木曜日

信号と相対的在り方

毎朝、烏丸通を北上して会社に向かう途中、気になっていることがある。
それは路上のマナーといったものだ。

通勤時の烏丸通はさすがに人通りが激しく、人も車も自転車もごった返している。
信号が赤になっても立ち止まろうとしない人々、後ろから突っ込んでくる自転車、赤信号を無視して走り抜けていく車など、けたたましい。

ベトナムから帰ってきたばかりのときは、車が一台も通っていないのに信号を守ることやヘルメットをかぶってバイクに乗ることなどが、不思議に感じられたが、今ではかえって日本のルールを守ることが楽しく感じられるようになった。今自分は日本にいるんだ、という実感が湧くからだろう。郷に入っては郷に従えとはよく言ったものだ。

人々が猪突猛進しているような姿を客観的に眺めるのもなかなかおつだなとこの頃は感じている。こんな喧騒の中で、しっかりルールを守って赤信号で立ち止まる一握りの人々を見て、何か安心感を感じたりもする。一人一人の行動に、それぞれの在り方・存在そのものがあふれ出ていて、このような相対的な在り方のすべてをひっくるめて世界の在り方なのだなと感じる。

2007年8月27日月曜日

ミクロの世界とマクロの世界

この世界がどうなっているのか、子供心によく考えたことがないだろうか。
 高校時代に化学の勉強をしたとき、大変面白いと思ったことがある。それは、原子の構造だ。陽子、中性子、イオンなどの素粒子は、まるで月が地球の周りを回っているように、もしくは地球が太陽の周りを回っているように原子核の周りを規則正しく漂っていると聞いた。さらに、それぞれの素粒子は、引力と斥力の両方の兼ね合いにより結合・離反しているのである。これはまるで、宇宙の働きそのもののようだ。
つまり、ミクロの世界とマクロの世界は構造的に大変よく似ているということは大変興味深い。
 このようなことは、実は、紀元前5世紀ごろにはギリシャ哲学で考えられていたことだという(もちろん実証はされていなかったが)。エンペドクレスという自然哲学者は、愛と憎しみという二つの力によって物質が離合集散することでこの世界は成っていると言ったそうだ。

そこで私は空想する。
 実はこの世界のさらに外側には、より大きな世界が存在し、その大きな世界の住人の、体の中の細胞などを構成する小さな原子こそが私たちの宇宙なのではないかと。もちろん、この考えは、無限遡及して、結論が出ない。
 しかし、私たちの存在とはいったい何なのか?と考えるときに参考となる、ひとつの大事な思索になりうるような気がしている。

2007年8月20日月曜日

存在(いき)ていること

 私たちは「生きている」。この「生きている」という現実を、存在論的な観点から表記してみると、「存在(いき)ている」と書ける。これは、私たちが他から独立した唯一無二の存在としてこの世界に存在していることを表したものである。もちろんこれは私の勝手な造語であるが、しかし私たちは日常、存在ということを意識しているだろうか。

 以前教師をしていたときに、子どもたちに生きることの意味についての作文を書いてもらったことがあるが、一人の子どもが「存在」という漢字を間違えて「尊在」と書いていた。私はその時、子どもたちの感性の鋭さに、ひどく心を打たれた。そして、「尊在」という言葉が私の頭の中を、その後何度も駆け巡ったことを覚えている。

 「一寸の虫にも五分の魂」と言われるが、「尊在」という言葉は、私たち存在するものすべてに対する、なんと慈愛に満ちた言葉であろうか。このような言葉に対する感性は、子どもたちの方が恐ろしく敏感である。

 私たち人間は生きているということを単に自分が存在すること(自存)だけで考えてしまいがちだが、実際には私たちは存在することによって、互いに影響を与え合っている。

2007年8月12日日曜日

感謝の言葉あれこれ

「感謝」という言葉は中国から来た言葉であろう。感謝という言葉をそのまま考えるとすれば、謝る気持ち、相手に対する申し訳なく、有り難いと感じる気持ちを感じるということであろうか。
しかし、おもしろいことに中国語の感謝はなぜか、謝々(シェシェ)である。謝るという言葉の繰り返しが中国では感謝を表すのだ。「ご迷惑をおかけしております。」ということなのであろうか。いずれにせよ、相手に対する何か申し訳なく感じる気持ちを表しているように感じる。
 考えてみれば、私たちは誰かに迷惑をかけてしか生きていけないような存在ではないだろうか。持ちつ持たれつ、お互いに迷惑をかけつつも長い旅路を助け合って生きていく。そんな気持ちが感謝や謝々という言葉の中に含まれていると感じられる。

 ところで、お隣の韓国では感謝の言葉はカムサハムニダで、カムサは感謝という漢字を表している。日本と同様、韓国では感謝と言うのだ。ベトナムはどうかというと、カムオン(感恩)と言い、恩を感じることを表している。また、英語のThankは、Think(思う、考える)と同語源で、自分が感じる思いを相手に表す言葉であろう。ちなみにこれはドイツ語も同じでダンケdankeも英語同様に、denke(思う)と同語源であると聞いた。

 いずれにせよ、感謝の気持ちを胸一杯に感じるということが、人間らしさの大切な一因なのではないかと思う。

2007年8月6日月曜日

参院選と平和記念式典

 今年も8月6日の朝が来た。朝から広島の平和記念(祈念)式典の様子がテレビで流れる。参院選で大敗した責任を問われている阿部首相も参列している。私はなぜか、ほっとした。
 先週行われた参院選では、民主党や他の野党が、自民党の揚げ足取りをするような形(もしくは自滅?)で勝利を得たのだが、参院選の内容は単なる勝ち負け論争、水掛け論でしかなかったように思う。また、阿部首相が参院選大敗の責任を取って総辞職しないことに対する批判が集まっていたが、この平和を願う日(そして8月9日、15日)に国民の代表として記念式典に参加していることにこそ意義があるように思う。もし辞職していれば、この日国民の代表がいないということになっていたであろう。だから私はほっとしたように思う。平和記念式典は、相対的・政治的な上下、貧富、優劣、勝敗といったものを超えたものでなければならない。国民が一丸となって平和を祈念する日でなくてはならないだろう。
 どちらが上か、誰が悪いかと自慢や非難をするのではなく、平和を実現するために、負の遺産を正の遺産として次世代に引き継いでいくために、我々自身の自己内省から始めるべきなのではなかろうか。