2007年12月31日月曜日

2008年 大晦日

わが子が風邪をひいてしまい鼻が詰まってしまっている。
わが子にとっては、生まれてはじめての鼻づまりであろう。
熱は無いが、心配なので、救急の小児科がある病院に連れて行き、赤ちゃん用のお薬を出してもらった。

そんなこんなで、親戚の家で迎えるはずの年越しも、今年は家族三人だけの静かなものとなった。

結婚、子どもの誕生と、あわただしい一年だったが、子どもが生まれて本当に良い年であったように思う。

2007年12月30日日曜日

初雪

とうとう初雪が降った。
今年最初で最後の雪になるのかもしれない。

寒いのは私自身はあまり好きではないが、しかし、雪が降ると、気持ちが引き締まる思いだ。

なにか新たな気持ちで新年を迎えられそうな気がする。

2007年12月29日土曜日

おしゃぶり


ベビー用品店に行った折にわが子のために新しくおしゃぶりを購入。
なんと出っ歯になりにくいおしゃぶりなのだそうだ(写真)

私自身が歯並びはいいとはいえ少々出っ歯気味であるため、迷わず購入(笑)

まだ歯も生えていないわが子であるが、そんなおしゃぶりが開発されているなんて、なかなか面白い。

2007年12月28日金曜日

雪やこんこ

帰省ラッシュのため、ここ数日はどこも混雑が予想されているが、面白いことに高速道路よりも、飛行機や新幹線の方が混雑する見込みであるという。

確かに来週は寒波が来るということで、お正月は雨か雪のところが多いらしいので、車よりも公共交通機関などを使った方が確実に帰省できるからなのかもしれない。

京都ではまだ雪は降っていないが、もしかしたら、正月中に雪が降るかもしれない。

ゆーきやこんこ、あられやこんこ♪

と子どもの頃は雪が大好きであったが、最近は猫のようにコタツでみかんを食べる方が多いように思われる・・・。年末・年始に事故を起こさないように気を引き締めて帰省したいと思う。

2007年12月27日木曜日

師走?

 ここ何日かの通勤時に、なんとなく違和感を感じていたのであるが、よくよく考えてみた結果、通学する学生を見かけなくなったことに気がついた。

よく考えたら当たり前のことではあるが、既に冬休みに入ったものと考えられる(笑)

12月を師が走ると書いて師走というが、学校の先生たちは、既に休みの期間に入っているのかと思うと、なんだかおかしくなってくる。(実際には、師走という言葉は先生が忙しく走り回るという意味ではないそうである)

 いずれにせよ、新年を迎えるためのラストスパートの時期に入り、あわただしく年が過ぎていくように思われる今日この頃である。

2007年12月26日水曜日

プロ野球誕生の日

 阪急桂駅の近くにある接骨院さんの前の看板に、「今日はプロ野球誕生の日/ジャイアンツの日」と書かれてあった。「へぇ~そうなんだぁ。しかし、関西でこんなことデカデカと書いていいのか??」と思いつつ、インターネットで調べてみると、1934(昭和9)年にアメリカのプロ野球と対戦する為、日本初のプロ野球チーム、「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が創立されたということが分かった。

 アメリカのメジャーリーグでイチローや松井などの日本人選手が活躍するようになった昨今、プロ野球の誕生をお祝いして、もう一度原点に戻ることも必要なのかもしれない。

2007年12月25日火曜日

クリスマスプレゼント


妻の兄夫婦より、わが子へクリスマスプレゼントが届いた。
ぐずっている赤ちゃんがすぐに泣きやむという、その名も「赤ちゃんけろっとスイッチ」

親としては大変うれしい贈り物だ。
なんと、テレビでおなじみの日本音響研究所所長、鈴木松美先生が共同開発したものらしい。

早く試してみたいと思っていたが、わが子はおとなしい性格のようで、なかなか使う機会を与えてくれない。そこで、試しに妻に試してみたが、けろっとスイッチの音楽は、右から左へむなしく受け流されるだけであった・・・。

けろっとスイッチを使う機会ができるだけ少ないということは、親にとっては大変幸せなことなんだと思う今日この頃であった・・・(笑)



タカラトミーのHP
http://www.takaratomy.co.jp/products/babyonline/feature/0611kerotto/

2007年12月24日月曜日

クリスマスパーティー



今日はクリスマスイブということで、ささやかながら、友人たちを招いて我が家でホームパーティーをした。明日は平日ということもあって、昼からのパーティーであったが、あっという間に時間が過ぎていったように思う。

今日のメインディッシュは、妻お手製のミートパイ。これがなかなかおいしくできあがり、お客さんたちも絶賛してくださった。また、久しぶりのケンタッキーフライドチキン、インターネットでクリスマスケーキランキング一位のケーキ、自家製食パン、デザートにはラ・フランスなど、ごちそうばかりであった。


我が子もご機嫌で、お客様方に終始笑顔を振りまいていた。
楽しい一日に感謝。

2007年12月23日日曜日

クリスマスイブイブ

クリスマスの前晩のことをクリスマスイブというが、この頃では、クリスマスイブのさらに前晩をクリスマスイブイブというらしい。つまり、23日の今日は、クリスマスイブイブなのだそうだ。イブを付けると前の日を表すらしい。

こういう言葉の派生はある一つの語の使用法から類推されて別の語に適用されるというケースなのであるが、これがさらに進んでいくと考えると面白い。

イブという言葉は通常はクリスマスという語にしか適用されない言葉として用いられているが、もしも「クリスマスイブイブ」という語が一般化すれば、100年、200年と経つ内に、クリスマスという語以外にも適用されるようになるに違いない。

たとえば、「昨日」という言葉は古くさい表現なので、すべて「イブ」で表そう、「一昨日」はイブイブで、という流行が起こり、昨日、一昨日という言葉の代わりにすべて「イブ」、「イブイブ」が使われるようになるかもしれない。

「イブ、なにしてた?」「イブイブ何食べたかなぁ~」といった日常会話が当たり前の世の中になるのかも。言葉はこのようにして、変わっていくのだろうなぁ。現代使われている言葉が古語になっている時代には、今からでは想像できないような語の使用法が生まれているのかも。

2007年12月22日土曜日

初勝利

週に一・二回打っている将棋で、初勝利を得ることができた。
相手はアマの段位こそ持っていないが、かなりのやり手。
今まで一度も勝てなかった相手だ。

ところが私のことを甘く見ていたのか、こちらの玉が逃げ切り、逆転勝ち。
たまたま拾った勝利であるが、今日のビールはうまい。

勝ったことで、さらに将棋が好きになったように思う。

2007年12月21日金曜日

お正月

「もういくつ寝るとお正月~♪」
と子どもの頃はよく歌っていたように思う。
今年もあと少しで過ぎ去り、新しい年を迎える。

昨日は紅白歌合戦の歌の内容も決まり、NHKでは頻繁に曲目の紹介がなされていた。

考えてみると、この年はあっという間に過ぎ去ったように思う。
残り少なくなった2007年という年を振り返り、新しい年を迎えたい。

2007年12月20日木曜日

フォーディメンションズ

学生の頃、私がはまっていたゲームに、フォーディメンションズ(立体四目並べ)がある。将棋よりも簡単で、五目並べよりも難しい(?)お手軽な対戦型の遊びといったところか。
しかし、学生時分は友人と勝負できたが、働くようになってからは全くしてこなかった。

ところが最近になって、買い物ついでに寄った本屋さんで売られているのを見つけ、購入。
お客さんが来られた時の一興に対戦したりしている。
私の楽しみが一つ増えて、非常に満足している今日この頃である。

2007年12月19日水曜日

バランタイン



 ぶらん菓を書いてくださっている東京スタッフのUさんから、21年物のバランタインがサイエンスに届いた。
わたしにとっては高級で、手が届かないようなウィスキーであるだけに、贈られてきたときには大変驚いた。

 そういえば以前オーストラリアに留学していたときに、トヨタ関係で滞在しておられた方のご家庭に招待されたときに飲ませていただいたことがあるが、口当たりも香りもバツグンで、おいしくいただいた記憶がある。しかも相当量飲んだつもりが、次の日は二日酔いも無く、体調が良くなったほどで、本当に高級ウィスキーはすごいと感心したように思う。

その時の記憶をはっきりと思い出せるほど、バランタインはおいしく良いお酒だと思う(笑)

2007年12月18日火曜日

耳掃除

先日、わが子がひどく耳を気にするので、心配になって耳鼻科に連れて行った。特に問題はなかったのだが、お医者さんから点耳薬なる薬をいただいた。耳の中に入れる液体の薬で、耳垢が良く取れるようになるものらしい。

耳掃除が好きなパパも同様に点耳薬をゲット。毎日使っている。
これで耳の中を傷つけることなく、耳掃除ができるようになった。
レベルアップした気分である。

2007年12月17日月曜日

お歳暮

お歳暮シーズンになり、テレビでも大々的にお歳暮のCMが流れている。わだまんサイエンスでもお歳暮セットがなかなかの好評で、wさんも必死に箱詰め作業をされている。

お歳暮にわだまんサイエンスに届いたものの中に活けえびがあった。

これには本当にびっくりした。魚好きの私には本当にうれしいご馳走だ。社員一同で分けておいしくいただきます。

2007年12月16日日曜日

クラブワールドカップ

浦和レッズがサッカーのクラブ世界第三位になった。サッカーはあまり観戦しないが、やはり世界大会ともなるとつい見てしまう。

最初の失点の時点でやはり日本勢には高い壁なのかとあきらめかけたが、ワシントンの2得点とPK戦には本当に感動させられた。特にワシントンは移籍が決まっているということで、鬼気迫るプレーだったように思う。

日本のサッカーのレベルはまだまだなのだろうが、浦和レッズが世界に誇れる結果を出すことができたのは、サッカーファンではなくとも、日本人として大変嬉しいことである。

2007年12月15日土曜日

野菜の自販機


うちの近所に新鮮な野菜の自販機がある。ビニール袋に入ったお米や大根、カブそしてほうれん草など旬の野菜が売られている。これが大変便利。

ほうれん草好きの私は一束100円で売られているほうれん草を毎日のように買ってしまう。量販店などで売られている物よりも色が濃く、おいしい。

我が家から歩いて1分の所にあり、家計の一助にもなって、本当にうれしい自販機である。

2007年12月14日金曜日

しゃっくり

うちの子は、ミルクやおっぱいをたくさん飲み、ゲップを出した後などに必ずと言っていいほどしゃっくりをする。しかも5~6秒に1回くらいのほぼ定期的なペースでしゃっくりをする。 こりゃ面白いとばかりに、5秒数えてしゃっくりにあわせて驚かせたりしているがほぼ効果が無かった。まだ話すこともないため、横隔膜がしっかりとしていないからなのだろう。


そんなわが子を見ていると、自分がしゃっくりをしなくなったことに気づいた。しかし、今週、久しぶりにしゃっくりが出た。15分くらい続いたろうか。

考えてみると最近は歌を歌っていないことに気づく。大学生頃から数年間、声楽を習っていた時からしゃっくりをしなくなっていたように思うので、やはり発声をしていないことが原因だと考えられる。

隣近所のことを考えて最近はギター片手に歌うことも少なくなってしまった。休日には少しセンチメンタルになって、思い出に浸りながら歌でも歌ってみようか。

2007年12月13日木曜日

クリスマスツリー


今朝のニュースで発光ダイオードを使ったクリスマスの電飾が紹介されていた。

今までの白熱灯による飾りに比べ、電気代も半額となり環境にも良いということで、庭の木に付ける家庭が増えているそうである。


そういえば、我が家の近くでさえ、たくさんの家庭でクリスマスツリーを見かけるようになった。


街では大通りに沿ってクリスマスの飾りが施された木々が立ち並んでいる。

いよいよユビキタス時代が到来した、そんな思いに浸る今日この頃である。

2007年12月12日水曜日

プレゼント2

オーストラリアに留学していたとき、女性の英語の先生がお話くださったことを思い出す。



「サンタクロースにお願いするクリスマスのプレゼントは何?」とその先生が3~4歳の息子さんに聞いたところ、「ボクは何もいらないから、パパとママがずっと健康で幸せであることをお願いしようと思うの。」と答えたそうである。その瞬間、その先生は息子さんをギュッと抱きしめ、「ありがとう。本当にありがとう」と涙したそうである。



もちろん、英語の授業のとき、その先生は嬉し涙を流しながらそのことを話してくださった。クリスマスは子どもがプレゼントをもらって喜ぶだけではなくて、子どもを授かった親も子どもたちからプレゼントをもらう日なのだと思う。

2007年12月11日火曜日

ママのこと大好き!

帰宅途中、小さな子どもを連れた親子の横を通ったときのこと。

幼稚園児くらいの男の子が母親に、「ママ好きよ♪ ママ好きよ♪」とまるで歌でも歌うかのように繰り返し話しかけていた。幸せ一杯の親子の姿を見て心温まる思いであった。

そういえば、以前ショッピングセンターで、「ママのこと大嫌い!」と叫んでいた小学校低学年くらいのめがねをかけた理知的な男の子がいた。近くで叫んでいたので、否が応でもこちらに会話が聞こえてくるのであるが、私がその男の子に非常に感心したのは、単に「ママのこと大嫌い!」と叫んでいるだけではなくて、その後に「でも大好き!」と付け加えていたからである。

最初はなんのことかさっぱり分からなかったのだが、男の子が叫んでいる文脈から推測するに、お母さんが無駄遣いをしていることをとがめている様子であった。

「ママのこと大好き!でもそんな(無駄遣いをするような)ママは大嫌い!」と叫んでいたのである。だから、「ママのこと大嫌い!」「でも大好き!」と繰り返し叫んでいたわけである。


「子は親の鑑」というが、親が子に支えられているのもいつわりない現実だと実感した。

2007年12月10日月曜日

テレビ電話

最近の携帯電話にはテレビ電話機能がついている。

電話料金は高くなるが、たとえば家族が離れている場合などには大変重宝する。幼い子を持つ親など、残業で帰りが遅くなるときなどには家族の笑顔を見てホッとするのではないだろうか。

科学の進歩には本当に驚かされる。

2007年12月9日日曜日

おはなし

最近我が子が言葉を話すようになった。言葉といってもまだ意味のない「あ~」とか「わ~」のような言葉である。なんとなく猫が鳴いているような感じなのだが、ドクタースランプあられちゃんに出てくる「ガッちゃん」そっくりなのには驚いた。

ごきげんなときは本当に「くっぴっぷ~」というから面白い。

2007年12月8日土曜日

ピロリ菌

毎週土曜日に放映されている世界一受けたい授業という番組の中で「ピロリ菌」の授業があった。これを見ていた妻が、「あ、私、ピロリ菌飼ってるよ」と平然と言う。びっくりして問いただしたところ、度々胃炎になるからだそうで、本当のところは分かっていない。

抗生物質を飲めばすぐにピロリ菌はいなくなり、胃炎や胃潰瘍もなくなるそうである。

ちなみに大人のピロリ菌感染率は2%程らしい。なによりも、ピロリ菌を飼っていると自負する妻を見て、母は強しと感じる。

2007年12月7日金曜日

マイブーム?

最近、お昼の弁当に和田萬自慢の「金の胡麻ペースト」をかけて食べている。
これが本当においしい。
焼き魚につけたり、とんかつやエビフライなどの揚げ物にかけたりしている。何気なくこれらの食材にかけて食べてみたのだが、それからというものやみつきになってしまった。

通常の練り胡麻に比べて味も濃厚で、せわしないお昼時に花を添えてくれている。

2007年12月6日木曜日

プレゼント

クリスマスシーズン到来!
街ではいたるところにきれいなツリーの飾り付けが施され、サンタの服を着た人々を見かける。

クリスマスといえば、プレゼントであるが、このプレゼントという言葉は、元来「一緒にいる」ことを表す。日本でも親は子にクリスマスプレゼントを与え、ケーキを一緒に食べるが、これには深いわけがあるという。

ケーキは丸い形をし、それをみんなで分けて食べる。丸い形は平和の和(輪)を表し、それを互いに分け合うことで、互いに助け合い、一緒にいられることを喜ぶために食べるのだそうだ。

だからヨーロッパなどでは、クリスマスには単に家族や知人だけではなく、一人分、余分に席を設け、ホームレスや孤児、寡婦など、見ず知らずの人を招いて一緒に食事をすると聞いた。大変興味深い文化のように思う。

そしてクリスマスプレゼントは自分が相手と一緒にいます、あなたのことを大切に思っていますという思いを子どもたちや贈る人へ伝えるために行われる習慣なのだそうだ。

私にとっては寒い夜に家族と一緒に過ごすことが、クリスマスに限らず冬の最高のプレゼントのように思う。

2007年12月4日火曜日

金の豚


今年は金の豚の年(亥年)ということもあって、我が家には金の豚の貯金箱がある。愛知県のリトルワールドに行った折に購入したものだ。




子どもが亥年生まれということもあって、妻が「一日300円ずつ貯金すれば、子どもが生まれる頃には出産資金の足しになる」と提案し一日300円貯金していた。最初のうちは妻も入れていたのであるが、出産準備で帰省してからは、妻には忘れられた存在となっていたように思う。

私は子どもが生まれる寸前まで何とか一日300円を貯金し、出産資金にしたのであるが、子どもが生まれた現在では、気づいたときにしか小銭を入れていない。


そんな思い出深い貯金箱なのであるが、この頃なぜか減っていることに気づいた。



実は、この貯金箱の存在を忘れているものとばかり思っていた妻が、小銭が必要なときなどに出して使っているそうである。



我が子よ、パパは今日もがんばっているぞ(笑)

2007年12月3日月曜日

冬の定番

暗くなる時間が早くなった。午後五時ごろになるとすでに辺りは真っ暗。さらには12月ともなると気温が下がって寒くなる。

暗くなる時間が早くなると、心理的に帰る時間も早くなるような気がする。学校など、子どもを預かる施設などでは、夜道が危険になるので生徒を早めに下校させるようになる。なんにせよ、帰宅時間が早まるのではないだろうか。


少し早めに帰宅して、風呂に入った後、一杯やりながら、美味しい鍋など食べるのは「いと おかし」だと思う。

鍋料理の中でも、私はほうれん草が好きなので、冬には「常夜鍋」(じょうやなべ・とこよなべ)が食べたくなる。ほうれん草と豚肉だけのシンプルな鍋だ。名前の通り、毎晩食べても飽きないほど好きである。私の冬の定番料理である。

少し早めに帰って、家族と団らんで鍋をつついたりするのも暖かくていいのではないだろうか。

2007年12月2日日曜日

サムライ カアサン

妻が最近読め読めとうるさい漫画がある。
「サムライ カアサン」というものだ。

サムライという名称が付いているが、特に時代物というわけではない。なぜサムライなのかはよく分からないが、少しだけ読んでみた。

いわゆる一般家庭の日常が描かれているのであるが、要するに母の愛がてんこ盛りなのである。反抗期の息子とのやりとりが中心で、たとえば次のような内容が描かれる。

恥ずかしくて母親の手作り弁当を学校に持って行きたがらない息子が、自分のために一生懸命弁当を作ってくれている母の愛に触れ、「晩ご飯は家で食べます」と言ったメールを送る。それを見た主人公のサムライ カアサンは「愛情こそが最高の(ごはんの)おかずなのね」と言って、白飯だけの晩ご飯を作る。内容としてはいわゆるギャグマンガなのであるが、その後おとうさんは「じゃ、ぼくは三杯は食べられるな」のような愛情あふれる返答をするわけである。読んでいるこちらが恥ずかしくなるくらい愛情たっぷりの内容となっている。

詳しいことはぜひ手にとって読んでいただきたい。現在三巻まで出ているとのことである。


そういったわけで、最近の妻の口癖は「サムライ カアサンみたいな理想的な母親になりたい。」である(笑)

2007年12月1日土曜日

京都の空気はきれいである。その証拠に虹がよく出るように思う。
さすがに京都議定書が決議された国だからであろうか。


虹を見ると本当にうれしい気分になる。童心に帰るような思いだ。








 しかし、もしかしたら虹はいつでもどこでも出ているかもしれない。単に私が気づいていないだけではないだろうか?とも思う。
 いずれにせよ、最近はきれいな虹をよく目にするように思う。

2007年11月30日金曜日

宅配サービス

子どもの首がまだ据わっていないため、買い物に出られない妻が、宅配サービスで食材を買うようになった。便利な世の中だなぁ、とひどく感心する。
食材もお手頃価格で、手のかかるものから15分ほどで出来てしまうものまで色々あるらしい。

さらに、前の晩のおかずを取っておき、次の日の私の昼のお弁当のおかずにしているのだ。
作っているうちに料理のレシピも覚えられて一石二鳥だという。

子どもがある程度大きくなれば、自分で買い物に行くこともでき、さらにはこうして覚えた料理を作ることができるようになっているので、お母さんとしても一人前になれるかも?!というのが、妻のささやかな目論見のようである。

2007年11月29日木曜日

サイフォン式コーヒーメーカー

先日、電化製品店でとうとう念願のサイフォン式のコーヒーメーカーを購入した。
時間がかかるが、通常のフィルター式のコーヒーメーカーに比べて濃いコーヒーが楽しめる。

元来私はベトナムやドイツなどの濃いコーヒーに慣れているため、アメリカンコーヒーのような薄いコーヒーでは物足りなかった。ドリップ式だとどうしても濃さの調整が難しかったがサイフォン式だと濃さも調整できるので、自分に合うコーヒーを抽出できるように思う。

2007年11月28日水曜日

名古屋土産

久しぶりに名古屋から両親が京都にやって来た。

名古屋の名物といえば味噌煮込みかえびフリャー(えびフライ)か八丁味噌か…そんなふうに感じるが、私が好きなのはえびせんべいの「ゆかり」である。それこそ「やめられない止まらない♪」ほどおいしい。一人で全部食べられるくらい好きだ。

今日の両親のお土産はまさにその「ゆかり」であった。
カルシウムたっぷりなので、わが子のためにもほとんどは妻にあげようと思う(泣)

2007年11月27日火曜日

名言

今朝の妻の名言。

「世間はお金がすべてだけど
 人間はお金がすべてではないよね」


・・・当たり前のようでそうではないようで、
   なぜか説得力がある。

う~む。実存的だ。

2007年11月25日日曜日

比較(相対的価値観)

人間は相対的価値観で物事を判断する。
つまり、何かを基準として、比較し、優劣をつけたり、勝敗が決まったりする。

先日、休みを利用してアカチャンホンポなる子ども用品店に、妻と子そして妻の母を伴って出かけたのであるが、ママとババはかわいいベビー服を探し回り、着るものにはまったく関心のないパパとしては、ベビーカーを引きながら、実用的な品物を見て回ったりしていた。

店内にはたくさんのベビーカーを引く親子連れが来ていたのであるが、面白いことに、なぜか、ベビーカーの中をお互いに気にしてしまうのである。私もついつい他人様の赤ちゃんのお顔を見てしまう。

(この子はまだ髪が生えていないなぁ)
(この子はパパ似だなぁ)
(パパとママにぜんぜん似てないなぁ)

色々な赤ちゃんがいて楽しい。

ちなみにわが子を見て声をかけてくださる方は必ず
「かわいいわねぇ。今何ヶ月?」
「え?まだ二ヶ月??それにしてはしっかりしたお顔ですねぇ」
と言われる。

いずれにせよ、パパとママにとっては、わが子は絶対的な存在で、愛おしいものである。

2007年11月24日土曜日

くしゃみ

我が子がくしゃみをしたのは、生後一週間もしない頃だろうか。

「へぇ~クション。」

最初は驚くと同時に皆おかしくて笑った。まるで「カトちゃんくしゃみ」ではないか。

単に「くしょん」とくしゃみするのではなく、最初に「へ」がつくのである。時々ではあるが、我が子はくしゃみのとき、「へっくしょん」とくしゃみをするのだ。

我が家では結構子どもの頃からカトちゃんくしゃみ的なくしゃみをするにはするが、もしかしたら、それが遺伝しているのであろうか?(笑)
それとも人間の本能として「へっくしょん」とくしゃみをするのだろうか。

謎である。

2007年11月23日金曜日

ほ乳類

人間は、ほ乳類に分類されている。人間の赤ちゃんは、生まれたときからずっと誰に教わることもなくおっぱいを吸うことを知っている。我が子がおっぱいを吸う姿を見て、いつも不思議に思う。

ほ乳類という分類を創った人もきっと、そんな驚きを持っていたのではないだろうか。
当たり前のことのようではあるが、誰に教わることなく、本能として母乳で育つ動物をみて、「ほ乳類」と名付けた人は、すごいなぁと感心している。

きっかけ

私がギターを始めたきっかけは、本当に簡単な理由からであった。

私が中学一年生の頃、勉強嫌いな私に対して、母が一言、
「お前は勉強できないんだから、手に職をつけて、将来、流しにでもなりなさい。」
と言ったのだ。それから兄たちが通っていた近くのギター教室に通うこととなった。兄たちはエレキギターを習っていたが、長渕剛とさだまさしのファンであった私はフォークギター(アコースティックギター、生ギターとも呼ばれる)を選んだ。

流しになるつもりで通うのだから、最初に練習した曲は、「昭和枯れすすき」(笑)

 ところが、ギターを始めてから、記憶力が良くなったように思う。授業中もギターの運指法(指の運び方)を練習しながら聞いていたため、寝ることもないし、指を使うことで、脳が活性化されたからであろうか。「ながら勉強」はよくないと言われるが、しかし、中一の頃は最下位に近かった私の成績はぐんぐんと伸びていった。もちろんこれは、家庭教師の方に来てもらうようになったからでもあるが、その家庭教師の方もギターをされている方で、さらに私も家庭教師の方も大の長渕剛ファンだったという幸運(?)にも恵まれたこともある。

ちなみに中学生のとき、友達にも誰にもギターを習っていることは告げなかった。自分で納得できるくらい弾けるようになるまでは、恥ずかしくて言えなかった様に思う。

いずれにせよ、きっかけというものは本当に些細なもので、継続することが大切なのだと思う。

2007年11月22日木曜日

暖房

寒さが少しずつ厳しくなってきた。
しかし、我が家ではまだ暖房を使っていない。
もちろん経済的な理由からではあるが、基本的には厚着をすることで防寒している。

大人の方はとりあえず、それでなんとかなるが、子どもの方はどうなのか分からない。そこで、ブタさん印のあったか赤ちゃん包み(?)で防寒。

ところが、わが子は寝ているとき、万歳ポーズで寝るため、夜間は手が出てしまうのである。 朝になって手を触ってみると、大変冷たくなってしまっている。

保健師の方がおっしゃるには赤ちゃんは体温調節のため、必然的に手足が冷たくなるそうであるが、これから本格的に冬の寒さになると考えると、乾燥と換気に注意しつつ、暖房をつけざるをえないであろう。

う~ん。パパはとっても心配だ。

2007年11月21日水曜日

心はとても面白い。心が付く、色々な言葉は本当にたくさんある。


和語であれば、真心、下心、二心、心意気、心得など。
漢語であれば、無心、関心、感心、決心、乱心、一心、専心などがある。


それだけ奥深く、捉えようのないものだからであろう。


上記した言葉の中でも、面白いのは心に数が引っ付いている場合だろうか。日々の生活の中では特に心が様々に分岐してしまう。


二心 心が二つに分かれている様子。二兎を追うものは一兎も得ず・・・


一心 心が一つのものに集中している様子。一心不乱になると周りが見えず・・・

毎日の生活では私自身の心もこのような心の状態なのではなかろうか。
しかしたとえば、仏教において一番目指されるのが

無心(心が空っぽになり執着から開放されること。)


だとすると、まるで心が無いことが良いことのようにさえ評価されかねない。


私が子供の頃には子どもたちが無関心になったと問題視されていた。


人間の「真心」(本当の心)とは一体なんなのだろう?と考えてしまう(笑)

2007年11月20日火曜日

インフルエンザ予防接種

インフルエンザの予防接種に初めて行った。

ベトナムに行く時だって、オーストラリアに行った時だって、予防接種は(経済的な理由もあるが)まったく受けたことが無かった。手洗いやうがい、飲料水などに気を遣えば、さして問題が無いからである。また、何らかの病気になったとしても、それで抵抗力がついて体が強くなるんだから、ドンと来い!的に考えていたこともある。

いずれにせよ、自分のためには予防接種の必要性を感じていなかった。

ところが今は、「ソ連A型が流行っている?!そりゃいかん。すぐに予防せねば!!」と、子どものためにそそくさと予防接種に。

そこで一句。

たらちねの 母に言われて 父もまた インフルエンザ 予防接種に

2007年11月19日月曜日

ヤイリギター2

11月18日(日)の朝の番組(NHK)にヤイリギターの矢入社長が出演されていた。

ヤイリでのギターの製造工程が紹介されていたのであるが、材木を加工する前に何年もの時間を費やして寝かせ、しかも出来上がったギターも音楽室で音楽を聞かせて寝かせるなどのことが紹介されていた。

お酒やお酢などもそうであろうが、物を作って売るという流れの中で、長い年月寝かせておくというのは、時間の浪費とも考えられる。しかし高品質のものを作るには絶対必要なことである。

矢入社長は、手間隙かけて物を作ることは、時代遅れなのかもしれないが、やはり愛情を込めて、時間をかけてギターを作ることを大切にしているとおっしゃっていた。それほど愛情を込めてギターを作っているということだろう。

矢入社長がテレビに出ている姿を見て、私自身も何か大変うれしい気分になった。

2007年11月18日日曜日

値段交渉

お金がなかった大学生のときの癖で、現在でも時間があれば電化製品を値切る。

大学生のときはパソコンを一台買うにしても、安い店を回って各パーツを買ってきて、それから組み立てるという、いわゆる組み立てパソコンを使っていた。最新のパソコンを作るにしても、人件費やブランド料、保証料が必要ないため、安価になるからである。

現在ではそこまではできないが、しかしやはり、時間が許す限り色々な店に行ったり問い合わせたりして、値切るのだ。

たとえば、新製品が安い店に行って、値段交渉をした後に、ポイントがたまる店に行って、あっちではこれだけの金額で売っていたのですが、こちらはどうでしょうか?などの交渉をするのだ。商品の値段にもよるが、たった2店回るだけでもすぐに数千円は値が下がったりする。

もちろん、いくつかのお店の方の名刺をいただいてあるので、遠くて出向けない場合は電話で交渉する。もちろん、インターネットなどで最安値を見つけておくとさらに交渉のしがいがある。

最終的に悩むのは、保証は付かないが、現金払いであればここまで落とせますなどのお店が一番安いとき。後は安さで買うか、保証で買うかが重要となるだろう。そういうときは、何年ぐらい使うつもりであるかを考えて、少々お金がかかっても保証を採る場合もある。また、付属で何かをつけてもらえるかも交渉して、全体的に考えて決断する。


家計でお悩みの奥様方、ぜひお試しあれ(笑)

2007年11月16日金曜日

障害者地域作業所トラック

大学のときの知人から連絡があった。
現在横浜の小さな障害者の作業所の所長をしているそうである。
ちなみに、彼のお父さんは有名な(?)日本画家である。

大学のときの彼のことを考えると、作業所の所長さんになるような人物とはまったく思えないが、福祉的な視点は以前からあったように思う。大学時代のボランティアサークルを作った張本人としては、ちょっぴり嬉しい知らせだったかも。
作業所長様、がんばって。

http://www12.plala.or.jp/TRUCK/

キティーちゃんの口

昨日の夜、帰ってすぐテレビをつけたところ、交通警察の特集番組がやっていた。
そのとき出ていた方が、なぜかキティーちゃんに言及した。

「キティーちゃんには口が無いんです。なぜ口が無いかというと、キティーちゃんは自分を映す鏡のようなものなのです。」といった内容のことを話されていた。

つまり、キティーちゃんには口が無いため、キティーちゃんには表情が無い。そして、表情が無いはずのキティーちゃんを見て、自分がどう感じるで、そのときそのときの自分の気持ちが分かるというのである。

もしイライラしているときにキティーちゃんを見ると怒ったように見え、気分がいいときに見ると笑っているように見えるらしい。

ビバ、キティーちゃん。(笑)

2007年11月14日水曜日

烏丸通

 毎朝、桂駅から阪急電車で阪急烏丸駅(地下鉄四条駅)に行き、そこから烏丸通を歩いて北上するのであるが、さすがに京都は修学旅行生が絶えない。しかも単に学生服を着たグループを見かけるから修学旅行生だと気づくのではなく、烏丸通に一列に並んだタクシーの軍団を見て気づくのだ。

 教育の基本は子どもたちの自立(自己解決能力)支援にあるとすると、少し考えてしまう。

 確かに修学旅行なのにタクシーで行くの?!と最初のうちは思っていたのだが、こう毎日のように同じ光景を見ていると、やはりタクシーで行かざるを得ないような状況なのかもしれないなぁ、と感じる。少ない日数で京都の観光名所を回ろうとするとやはりタクシーにならざるを得ないのか。各グループで回る場所が違うのかもしれない。

いずれにせよ、朝から烏丸通にならぶタクシーの列は、古都京都の景色の一つと言えるのかもしれない。

2007年11月13日火曜日

紅葉


日本は今、まさに紅葉シーズン!
ビジネス街である烏丸御池付近の木々も美しく色づいてきました。

日本に生まれてよかった。
日本に京都があってよかった(笑)

2007年11月12日月曜日

黄葉




オーストリアに住む知人からメールをもらった。 オーストリアも今がちょうど秋で、木々が色づいてきれいなのだそうだ。しかし、あちらは「紅葉」ではなく、「黄葉」なのだそうだ。

葉の色がきれいに黄色く色づき美しい。

各国それぞれの四季の移り変わりがあり、本当に趣き深いと思う。

ラーメン屋にて

生後一ヶ月半のわが子と妻と三人で某ラーメン屋を訪れたとき。

私たちはそこのラーメン屋さんの味が一番気に入っているので月に一回くらいは行くのだが、今回赤ちゃんを連れて行くのは初めてであった。

ベビーカーを横に置き、席に着くと、店員さんがなぜか水を3つ持ってきてくれた。「なぜ3つ?」と思ったものの、おそらく生後一ヶ月のわが子の分も持ってきてくれたのだろうと納得する。わが子のことも一人の人間として扱ってくれた店員さんに感謝した。

さらに帰り際には「お子様用のお菓子がございますが、どうなされます?」と聞かれ、歯の生えていないわが子にはまだ早いのでいらないとも思ったが、母親が食べるだろうと照れながらも「お願いします」と言った。私と店員さんとの会話を知らなかった妻が、「子供用のお菓子くれたよ」とやはり半信半疑で言っていた。

子どもを連れて歩くと今まで考えたこともないような出来事が起こる。世界が少しずつ変わって見えてきた(笑)

2007年11月9日金曜日

相棒

相棒というドラマがある。水谷豊さんと寺脇康文さんが共演する刑事物のドラマである。
私は昔から、推理小説が好きだったので、新しく始まったこのドラマのシーズン6を毎週欠かさずビデオに録っている。

内容としてはシャーロックホームズと刑事コロンボの融合型のドラマと言えようか。

以前から水谷豊さんが好きであった私は、あまり寺脇康文さんのことを知らなかったが、このドラマでは欠かせない、すばらしい役者であると思う。相棒の場合、どちらかというと寺脇さんがいて一層ドラマが面白くなっている。


まさに日本版の24(トゥウェンティーフォー)と言えよう。

2007年11月8日木曜日

ベビーカー

ベビーカーに子どもを乗せてはじめての買い物に行った。

妻は買い物、私は子守(?)であったが、我が子はいい子にねんねしていた。

しかし、ベビーカーをひいての買い物がこれほど難しいことだとは思わなかった。世のお母さんたちはすごい。私が慣れていないせいもあるとは思うが、ベビーカーの操作だけでも大変に感じた。

スーパーで周りを見てみるとベビーカーをひいたお母さんがたがたくさんいたのだが、多くの方はベビーカーを一人でひきつつ買い物をしているのだ。考えてみると新生児を持つ世のお母さん方は日々の買い物を一人でしているに違いない。

「母は強し」この一言に尽きる。


・・・父も微力ながらお手伝いさせていただきます。

2007年11月7日水曜日

忘れること

私は元来忘れっぽい。
小さい頃から忘れ物もひどかった。

最近では脳内トレーニングのようなものが流行っていて、すごいなぁ、とは感じるが、人間にとって忘れることも大切なことのように思う。

夜見る夢というのは記憶の整理なんだと聞いたことがある。
眠っているときに脳が記憶を整理整頓し、今日一日の記憶が長期記憶と短期記憶の両方に振り分けられるため、夢を見るのだそうだ。

今日一日自分がしたことをしっかりと清算して、また新たに明るい一日である明日を生きていくのだと思う。

2007年11月6日火曜日

暖かさ

以前、阪神淡路大震災の被害に遭われ、またご自身が看護師として精神的後遺症に悩む人々の心のケアをされていた方の公演をお聞きしたことがあった。
そのときに人間というものは過去のつらい経験を時を重ねるに連れ、人に語ることができるようになるものであり、心というものは成長し、強くなるものなのだというお話を伺った。

また、人は誰かがそばにいてくれるだけで心が安らぐものなのだというお話を伺った。誰かがそばにいてくれる。それが人間の存在の重みなのだと。

私たちはすぐ直後に起こることさえ予知できないのだから、ぜひ近くにいる人々に愛のある暖かい言葉をかけてくださいと、そのときお願いされたように思う。

特に日本の男性は妻に対して愛のある言葉を語るのが苦手だという。
耳の痛いお話であった(笑)

少し寒くなってきたし、ハズカシイ気持ちを少し横において、暖かい言葉のひとつでも語ってみようかな、と思う。

2007年11月5日月曜日

寒さ

私はどちらかというと寒さよりも暑い方が身体的にも合っているように思う。
以前ベトナムで生活していたときには、ベトナム人に間違われるほど日焼けして、冷房も使ったことはなかった。

しかし、寒さとなるとこれがまた骨身にしみてしまう。
この頃は急に寒くなってきたため、朝晩はくしゃみが止まらず、布団から離れられない位になってしまう。

寒いときには布団にくるまることが一番の幸せかも知れない。



そんな私なのであるが、なぜかいつもギャグを言うと寒いと言われる(笑)

2007年11月4日日曜日

未来祭り

玄米工房あすかさんで行われた未来祭りに参加させていただいた。
お店からあふれるほどの人、ヒト、ひと。
初めてお会いする方も多数いらっしゃったが、本当に有意義な集まりであったように思う。

初めて食べさせていただいたクレープ職人宮内氏のクレープに感動。
初めてクレープを作っているところを間近で見てさらに感動。

女性が多かったため、私を含め男性陣は少し緊張気味であったが、色々な人に出会えて本当によかった。

玄米工房あすか様、本当に楽しい時間を有り難うございました。

2007年11月2日金曜日

おむつ

以前まではオツムばかり使ってきた私だが、このごろはオムツをよく使う。(おやぢギャグ?!)

そう子どものオムツだ。


オムツはよく選ばなければならない。子どもの肌に合うかどうかが重要となってくる。

実はお祝いに頂いたオムツを使ったのだが、使い出して3日くらい経ってから子どもが大声を出して泣き止まなくなった。赤い湿しんが多数できており、すぐにお風呂に入れた。お風呂に入れるとようやく泣き止んだ。原因を考えてみたら、オムツを変えたことに行き当たったのだ。

オムツなんてどれも同じだろう、くらいに考えていた私だから、ただでもらったものを使い終わってから買い足せばいいだろうと気楽に考えていた。
しかしそれは大きな間違いだったのだ。

赤ちゃんの肌に合ったオムツ選びが必要だとわかった。


わが子のオムツ代を稼ぐため、パパは今日も働く・・・

2007年11月1日木曜日

ボランティア

ボランティア(Volunteer)という言葉は、ラテン語のVoluntas(意志)から派生した言葉で、直訳すると「自らの意志を持つ者」ということになる。



もっと簡単に言ってしまえば「自ら好きなことを進んでやっている人」ということになるだろうか。




大学一年生のとき、ひょんなことから、とある小さなボランティアサークルの主幹をさせられたことがあった。それから色々とボランティアとは何か考えるようになったと思う。


学生のときは、何かボランティア的なことをすることがとても正しいことであるかのように考えて、障害者の介護や老人の介護に行った記憶がある。自分がやっていることは正しくて良いことなのだと過信していたように思う。


 お年寄りや体の不自由な人を助けることはもちろんボランティアであるし、海外ボランティアなども今はある。
 ただ、気づいたのは、間違ってもボランティアとは悪いことが起こるのを期待することではないということだ。ボランティアサークルをやると、何かからだの不自由な人はいないか、とか、自分を必要としている人はいないだろうかなどと自分よりも劣っているもの、自分よりも弱き者をさがしていたように思う。裏を返せばそれは、何か悪いことが起こらないかと期待することでもあったのだ。



 もし悪いことが起きたときに自分が何者かであるかのように人を助けたりすることがボランティアであれば、悪いことが起こるように、もしくは困っている人がいるように願うことがボランティアの本質になってしまう。つまり単に自分の格好良いところを見せたいだけに過ぎない。


 そうではなくて、自分の周りにいる人をありのままに受け容れ、障害者だとか国籍だとか老若男女だとかを意識せず、仲間として自然に愛する意志を持つことがボランティア的生き方なのだと思う。

2007年10月31日水曜日

なくて七癖

妻が我が子に関する重要な癖を発見をした。

「すっきりした後には口をとんがらせる」のである。

食事中の方には申し訳ない話であるが、
この癖を発見したことは赤ちゃんのいる家庭では貴重なことといえる。

我が子にとっては一仕事終えた後の安堵感といった表情であり、
親にとってみれば我が子のおむつ替え時サインなのだ。

子どもにずっと寄り添っている妻の偉大なる発見といえよう(笑)

2007年10月29日月曜日

お風呂

毎晩、必ず風呂につかるようになった。
なぜなら現在は子どもと一緒にお風呂に入るようになったため。

 大学生の頃から、時間的な余裕がなくなったことと、光熱費と水の節約のためもあり、あまりお風呂に入らなくなったが、今は日課として子どもとお風呂に入る。

この時だけが父と子の親子水入らずの時間なのだ(笑)

 面白いことに赤ちゃんの体は水に浮いてしまう。だから湯船につけてもまっすぐにはお風呂に入れない。必ず浮かんでしまうため、「今のうちから風呂の中で歩行練習をさせよう」というパパの企みはもろくも崩れ去る。

 また、目の中に誤って水が入ってしまっても、赤ちゃんは無反応だ。「あ!水が目に入っちゃった!!」などと親の方といえばびっくりして慌てふためくのだが、本人は平気のようである。たぶんおなかの中にいたときはずっと羊水の中にいたわけだから、目に水が入っても痛くないのだろう、と勝手に考えている。

そんなわけで、

「パパだって お前を目の中にいれても 痛くないぞぉ!」と風呂で叫んでみたり(笑)


体が温まってくると赤ちゃんは寝てしまう。それを見てパパもついウトウト。
頃合を見てママが二人だけの至福のときに終わりを告げる。

こうして我が家の一日が過ぎていくのであった・・・。

2007年10月28日日曜日

新お父さん

いよいよ子どもが妻の実家から帰ってきた。
そのため子供用のベビーベッドを組み立てたが、これにはかなりの時間がかかった。
説明書を見ると・・・ふむふむ・・・

「必ず二人で組み立ててください」と書いてある。

妻は子どもに付きっきり。一人でやるしかない(泣)

苦節三時間かけてやっとベビーベッドができあがった。

世の「新お父さん」たちは子どものために同じようにベッドを組み立てたり、おむつを変えたり、お風呂に入れたりしているに違いない・・・。そんな思いがよぎる。

がんばれ!新お父さんたち!!

2007年10月26日金曜日

将棋

私は週に1、2度ほど知り合いの方と将棋を打っている。

相手をしてくださる方は、アマチュアながら段位を持っておられる方で、私自身は「先生」と呼んでいる。

私が先生に勝たせていただいたことは何十回と打った中で本の数回だけ。しかも先生が「これを見抜けるか」とばかりに、わざと優しい手を打ってくださったときだけだ(泣)

元来私は相手もいなかったし、毎週のように将棋を打つことなど無かった。打つ手も穴熊一本だったが、先生に教えてもらうようになってからは色々な手を教えていただいて、打っている。先生の教えとしては、何度も打つこと。それによって棋力が徐々に上っていくのだという。

毎回先手を打たせていただいても、また、序盤で良い様に進めることができても終盤で逆転負け(泣)

一つ一つの駒が持つ力をまだ十分に引き出せていないと指摘された。

「吹ーけーばぁ 飛ぶよぉな、将棋の駒に~♪」と口ずさみながら、今週も成り切れない「歩」として吹き飛ばされるか(笑)

一ヶ月検診

うちの子供の一ヶ月検診があった。内容はまったく問題なし。

親としては、容姿端麗、知能優秀、スポーツ万能、温厚篤実などなど、子どもに期待をしてしまうが、それでもやはり、親としての一番の願いは安全第一ならぬ健康第一である。

わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。

2007年10月25日木曜日

悩み

今私には一つの悩みがある。

毎晩風呂に入るとき、必ず体を洗うタオルをかけるために買ったフックが取れていることである(笑)

毎回、風呂に入るときにひっつけて、次の日にはまた取れてしまっているのだ。

最初に購入したのは、普通のプラスチックのフック。しかしこのフックはタオルが少しでもぬれているとまったく使い物にならなかった。
ピタッ、ポテ。
ピタッ、ポテ。
ピタッ、ポテ・・・
この繰り返しであった(泣)

そこで今回、新しくフックが下にスライドして吸着面内の空気がしっかりと圧縮されるタイプのものを購入した。このフックの場合、プラスチックのものよりも高価であり、それだけの効果を期待したのであるが、喜んだのもつかの間。次の日には取れてしまっていたのだ。それでも出したお金の分くらいは働いてもらおうと、毎日取れるのはわかっていても使っている現状。

これはもちろん、風呂場の壁の材質によるところが大きい。
しかしこればかりはどうしようもないので、今では風呂のときフックを付けることが私の日課の一つとなっている。

2007年10月23日火曜日

家庭を築く

 河野さんという知り合いの夫婦が11月の新築予定で家を建てている。
ところがペンキを塗ったり、使う材木を買ったりと、自分たちで作業をしているらしい。

 家を建てるというと、私などは業者さんに頼むものだとばかり考えていたが、どの程度までかはわからないが、河野さん夫婦は自分たちで色々と工夫して建てているようだ。

 この前久しぶりに会ったときも、家に使う木材を見に行ったり、庭に使う大きな傘(?)を買ったりりしていた。実際に「建材市場」なるホームセンターでは、アウトレット建材(国内メーカー・海外メーカー等で大量生産により在庫になってしまった商品、展示品、多少のキズのある商品で一般市場では販売しない商品)というものが安価で売られていた。自分で家を建てることができるなんて、考えたこともなかった。高の夫婦のパワーはすごい・・・と感心してしまった。

 もちろん、経済的な理由もあると思うが、忙しい時間をぬって、自分たちで汗を流して家を建てるなんて本当にすごいことに思える。さらにおめでたいことに、奥様がご懐妊されたと聞いた。待ちに待ったご懐妊、本当におめでとうございます。
あまり無理をせず、元気な子どもを生んでくださいね。家が建ったら遊びに行きます。

2007年10月21日日曜日

季節の変化

2~3週間前から、町を歩いていると金木犀(きんもくせい)の本当にいい香りがしている。
金木犀の香りがすると、自然に秋が来たと感じられ、日本に生まれてよかったなと自然に感じる。

大学生のときにもぐりこんだ国文学の授業で、古今和歌集を教えていただいたことがある。
その中で、特に感動したのが、小野小町の有名な次の歌の解説であった。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身 世にふる ながめせしまに

通常この歌は、小野小町自身が「花の色(私の容貌)は、長い雨(ながめ)が降っている間(梅雨の季節)に、移り変わってしまったなぁ」という内容だと教えられているが、本来的にはこれでは足りないといった内容であった。
つまり、小野小町は恋人の気持ちを詠んでいるというのだ。

「私が歳を取り、容貌も変わってしまったせいで、あなたの私への想いも(別の若い女性)に移っていってしまったわ」という含意があるという。

もちろんこの歌を単なる色恋沙汰が詠まれている歌だと考える人はいないと思う。人の心も季節も移り変わっていくものであり、その中に人生の機微とでもいうべきものがあるのだということが表現されている。しかもたった何十文字かの歌の中で、この世界の森羅万象に通じる事柄が歌いこまれているということは本当に驚愕に値する。

四季折々の花が咲き、移り変わりがある。
この世界に生まれてきて、よかった。

2007年10月18日木曜日

信じる心

寺めぐりで訪れた伏見稲荷大社で感心したことがある。

それは、今まで当たり前のように思っていた稲荷神社のトレードマークの狐が白色で表されていたことである。稲荷神社の狐は実は白い狐であり、この場合、白いとは「透明」であることを表しているという。つまり、神の使いとしての狐は目に見えない存在なのだ。そう、つまり信心の対象としての神の使いなのである。



目に見えないものを信じるということは、普通に考えてみれば、ありえないことである。特に現代では目に見えないもの=存在しないものという図式となっている。



これはもちろん宗教的な見地を除けば当たり前のことなのかもしれない。しかし、以前書いたように数という概念は、実際には目の前に存在していない数という抽象概念を通してものを考えることであり、それを通して得られた結論を現実世界において具現化するというようなプロセスをとっているように思う。



ところが目に見えないものを信じているというのは、やはり日常茶飯事に行われている出来事でもあるのではないだろうか。



学校の友達に会う、会社の同僚と食事に行く、家族団らんのときを過ごす。当たり前のことのように考えられる日常において、私たちは無意識のうちに、

友達は自分を裏切らない、だって友達だから

 とか、

レストランで出される食事には毒は入っていない、だから安心して食べられる

 とか、

家族との幸せのときが続く、だって愛し合っているから

と信じている。しかし、いつ何時何が起こるかわからないのがこの世界の現実ではないだろうか。もちろん、心配ばかりしていたら逆にノイローゼにでもなってしまい、悪循環ではあるが、一瞬一瞬、実は私たちは不思議なほど安心して毎日を生きている。

これこそ、本当の意味での信じる力なのではないだろうか。



日常において当たり前のように私たちが持っている信じる心は、人間の本質的な在り方ではあるが、この世界を超えていると言って良いほど、不思議なもののように思う。



本当にこの世界は驚きに満ちているなぁ。

2007年10月17日水曜日

1+1=2?

人間というものは概念化ができる存在者と言える。
事物の名前を付けたり、事物の種類(類概念)を定義したりすることで、概念化している。


ところが実際に存在するものを現象論的に捉えると、個々の存在はまったく別存在であると考えることができる。たとえば、小学校の算数の授業などで、りんごが何個あるか、とか、えんぴつが何本あるか、などの問いに対して、子どもたちには数の概念がないため、物を抽象化して扱う算数を理解することは本当に大変なことなのではないかと思う。実際に私自身もそんな生徒の一人だったように思う。


赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークがある。それらはチョークという「モノ」としては同じものであるが、色が違うので赤いチョークと白いチョークと黄色いチョークはまったく別物だと思えてしまうのだ。つまり、赤いチョークと白いチョークは私にとっては同じものではない。存在としては一つ一つが独立して存在して、一緒くたなんかにはできるわけがない。

だから、赤いチョークが2本、白いチョークが4本あったとしても、それらのものは合計6本にはならないはずなのだ。あくまでチョークという物を抽象化(数値化)して捉えているに過ぎない。だから、算数で行う計算などはすべて、一人ひとりの頭の中の世界で起こっている脳内現象であり、現実世界で起こっている現実ではないと言える。

まぁそんな屁理屈をこねていた私は、もちろん算数が大の苦手であったが、後になって数の概念を人に教えるときには、役に立ったようにも思う。

ただ、大学生になってびっくりしたのは、哲学では抽象的な概念を具体的に考える能力が必要だと教わったときだろうか・・・(泣)

2007年10月14日日曜日

心に残った言葉

子どもが生まれた次の日の夜、病院から私が帰ろうとしたときのこと。
生まれたばかりのわが子を抱きしめながら、妻が次のようなことをつぶやいた。

「子どもを捨てる親の気持ちがわからない」

どういうつもりで妻がこの言葉をつぶやいたのかはわからないが、疲れていた私はなんとなく聞き流して帰宅したように思う。
それから何日か経って、妻がつぶやいた言葉が時折思い出される。

娘時代を卒業し、結婚して妻となり、子どもを生んで母親になった瞬間の女性の実感を現す、そんな言葉のように思う。

2007年10月10日水曜日

2500年前は古い?(2)

 以前にも引用したが、紀元前5世紀頃にエンペドクレスという人物が、火、土、水、空気といった自然界を構成する要素のようなものが、「愛」(引力)と「憎しみ」(斥力)によって離合集散(ひっついたりくっついたり)することによって成り立つと考えたと言われる。2500年前にすでにそのような思想があったと知ったときには本当にびっくりした。

 また、現在では当たり前になっていることであるが、デモクリトスという人物は原子論を唱え、この世界の構成物質は火、土、水、空気などではなく、「原子(アトム)」なのだと教えたとされる。もちろん、彼の説は長い間忘れられていたが、最近それが正しかったことが明らかとなり、彼が名づけた「原子(アトム)」という名称が使われるようになったらしい。

 本当に先人たちの知恵には驚かされる。

2007年10月9日火曜日

2500年前は古い?

古代史を学ぶと驚かされることがたくさんある。

紀元前五世紀頃には、現在の思想の根幹となる思想が多数現れてきたと思われる。
仏陀の登場、ギリシャ哲学の誕生、ピタゴラスに代表される数学の誕生、中国における老荘思想の誕生、ユダヤ教の成立などすべて紀元前五世紀前後に集中しているそうだ。

2500年前と言えば、まだ日本では有史前の縄文時代。そんな時代に先人たちは現在の私たちでさえ及ばない程の思索をしていたと言える。本当に驚くばかりである。

私が大変感動したのは、ピタゴラスが発見したとされる次の定理だ。

1から順に2増える奇数の和はその奇数の個数の平方に等しいというもの。要するに奇数を足していった和は、その奇数の数を2乗したものというものである。

1=1の2乗(奇数1個なのでその2乗。つまり1) 
1+3=2の2乗(奇数2個なので2の2乗。つまり4)
1+3+5=3の2乗(=9)
1+3+5+7=4の2乗(=16)
1+3+5+7+9=5の2乗(=25)
    ・
    ・
    ・
    ・
このように続いていく。

本当に驚くばかりである。

2007年10月7日日曜日

日本語の助詞

日本語はすごいと思う。日本語独特のものとして、「て」「に」「を」「は」などと言われる助詞をあげることができるが、特に「が」や「は」などで文章の主語を表し、それでいて英語の関係代名詞のような働きもするところなどは本当に面白い言語だと感じる。





たとえば、


「彼は今日、上司が愛犬のポチがとてもかわいいんだと自慢するのがいやで、別のことを考えていた」


などの文章を考察すると面白い。
(ちなみに上の文章は強引に助詞「が」を3度使用してみた)




そのまま英語に訳すのは難しいように思う。英語では主語と動詞をはっきりさせなければならないからだ。訳すとすれば次のようになるのだろうか?


Today, he thougt of other things because he didn't like to hear his boss talking proudly about how cute his pet 'Pochi' was.





なにせ英語の場合であれば、関係代名詞や動詞がごちゃまぜになってしまうし、主語を何度も言わなければならない。




それを日本語では簡単に言うことができる。
日本語は本当に便利な言語だと思う。

2007年10月5日金曜日

結婚契約

 日常生活の中には、この世界を超えた出来事が、日々当たり前のことのように起こっている。卑近な例を挙げると、たとえば、「結婚」がそうであろう。


 結婚の定義を間単に言ってみると、世界に何十億といる人の中から、たった一人の異性を選び、生涯の伴侶とし、社会の最小単位である家庭を築くことと言えようか。

 これを実存的な見地から捉えてみると、この世界における唯一の存在である一人称の「私」が、まったく別存在の唯一の「私」である異性を、他の存在者を排除して、二人称「あなた」として受容し、排他的に愛することによって、さらなる存在者(子)をこの世界に生み出し、まったく新しい存在論的な地平を切り開き、創造していくという唯一性と排他性、そして創造性の入り混じった事柄であると言えよう。

 もちろんここで言う結婚概念は、認識論的に言えば、意志([ラ]Intentio)を持っている人間存在にのみ可能となる契約概念であるが、しかし、雌雄の性別を持つ動植物といった存在者も含め、二つの存在者の間でなされうるものであれば、やはり同様の事柄が言い得るのかも知れない。



 いずれにせよ、結婚することによって色々とこの世界が違って見えるものである(笑)

2007年10月4日木曜日

ジェニファーちゃん(?)

今日はジェニファーちゃんを紹介しよう。

ジェニファーちゃんとは会社に棲みついているクモのことである。ちなみにジェニファーというのは社長の命名である。(ただし性別不詳である[笑])

いつのまにかわが社のアイドルになっている。

私がかわいそうに思い逃がしてあげようと捕まえると、wさんから、ストップがかかった。クモは家の守り神として大切にするものなのだという。確かにクモというのは害虫を捕まえてくれたりする。さらにこの手のクモは巣も張らなくて部屋も汚れないそうである。

ということで、ジェニファーちゃん、今日も楽しく遊びまわれ!

2007年10月2日火曜日

微笑み

わが子が生まれて10日ほど経ったが、これまで、まだわが子の微笑を数回しか確認していない。

人間というものは、生まれてすぐ本能として笑うものとばかり考えていたが、そうではなくて、赤ちゃんは笑うことを身につけていくのだという。共存本能(?)とでもいったらいいのか。


「あ、赤ちゃんが笑った!」



赤ちゃんの笑顔を見て、パパの顔も思わずほころぶ。



赤ちゃんが笑ったのが先か、社会的に笑顔を身につけていったのが先か。



う~ん。実存的問いだ。

2007年9月27日木曜日

新種?

京都の道を歩いていたときに見つけた、面白い生物を見ていただきたい。
まずは蝶々。烏丸通を南下して駅へ向かう途中にあるビルのガラス扉に張り付いていた。
単なるカラスアゲハのようにも見えるが、何かカラスアゲハのようで違うような・・・。もしかしたら新種のカラスアゲハかも知れないと写真を撮っておいたが、日が暮れており、携帯のカメラであったため鮮明には写せなかった。







また、御池通り沿いの家の塀に張り付いていた蛾のようなアブのような生き物。蜂のような色をしているにも関わらず蜂ではないし、もしかしたら新種の蛾かも知れないと撮影した。これも鮮明には撮れていないがなんとなくわかっていただけるであろうか。






知っている方がいらっしゃれば、どなたか教えてください。

2007年9月25日火曜日

自然の力

妻の陣痛が始まってから、2日が過ぎても生まれてこない難産だった。


産道がしっかりと開ききらず、赤ちゃんの頭も大きいため、陣痛はあってもまだ出産には踏み切れない状態が続いたのだ。



2日目の夜に、1分おきごとの大きな陣痛が来て、皆、もうすぐ生まれるという期待感で一杯になった。痛みに苦しむ妻の背中をさすり、診断のときを待った。



診察室に連れて行かれたものの、残念ながらまだその時ではない事が告げられた。そして、3日目の昼まで待って産道が開ききらなければ帝王切開に踏み切ると告げられた。



「切るなら切るで早くなんとかしてほしい」と家族の誰もが思っていた。

耳の奥に残る妻の痛み苦しむ声が私の頭の中を何度も駆け巡っていた。



睡眠誘発剤と陣痛抑制剤を打ってもらい、妻は少し眠ることができたようだ。



3日目の朝、陣痛促進剤を打つ予定であったが、薬が切れるとともに強い陣痛が自然に始まった。

助産師さんたちも何人かそばについてくださり、万全の態勢で看護してくださった。正午までの時間が本当に長く感じられた。



とうとう正午が来た。診察を受けるとすぐに分娩室に運ばれた。もう赤ちゃんの頭が3分の1ほど見えていたそうだ。分娩室には10人近くの助産師さんたちが入れ替わり立ち代り様子を見に来てくれた。そして、ゆっくりと確実に赤ちゃんが外の世界へと生まれてきた。

娘の苦しむ姿を直視できなかった妻の母は、一旦家に帰り、病院に戻ることをためらっていた。正午になって足取り重く病室にやってきた。分娩準備室に私たちがいないことを知り、いよいよと覚悟を決めて分娩室に入ってきた。



「生まれてよかったね~」(泣)と半泣きの娘とその旦那を見て、やはり涙が溢れた。



後でわかったことだが、産道はやはり開ききっていなかったそうだ。だが、赤ちゃんの生命力で子宮経口を引き裂いて、自ら出てきたのだという。



自然の力は、本当にすごいと感じた。

2007年9月14日金曜日

ヤイリギター


 高校生の頃からお世話になっているヤイリギターに久しぶりに行ってきた。
 矢入(やいり)社長さんもお元気そうで、一緒に写真を撮っていただいた。もちろん「男性とは写真なんて撮りたくない」とおっしゃっていたが、何とか頼み込んで。
(ちなみに親子ではありません[笑])

 ヤイリギターは、日本で唯一ハンドメイドのギターを作っているギター工場で、最近ではBEGINとのコラボレート作品である「一五一会」などで有名だ。私自身は一五一会が開発される前に、エンジョイシリーズ(小型ギター)というものがあったのだが、そのモニターをさせてもらったりした。

 社長さんはたくさんの雑誌でも紹介されているので、ご存知の方もいるかもしれない。いずれにせよ、「一生使えるギター」をユーザーに提供するという信念(永久保証)と、ヤイリの工場で働いた職人さんが将来独立して立派なギター職人になることができるようにという育成方針をもってやっておられる。ギター一筋の本当に味のある親父さんである。

 高校生の頃から愛用している私のギターは、様々な傷みや傷が付いてしまったが、何度も修理してもらい現在でもいい音色を出している。

 ヤイリギターの工場の周りの景色は、どんどんと変わっているが、ヤイリだけは昔から変わらず、懐かしいひと時を過ごさせていただいた。

ヤイリギターHP
http://www.yairi.co.jp/

2007年9月11日火曜日

細胞から見る共生

 細胞というのは、面白い。所謂生命体と呼ばれるものには必ず細胞が存在する。生命体とは細胞の集合体なのである。大学院生のときに、他学科の教育免許を取るため履修していた生物の授業で、DNAやRNAなどのことについて学んだ。RNAとDNAではDNAの方が構造的にしっかりしていて、エイズウィルスやインフルエンザウィルスは基本的にRNAであるため、安定せず、よく変異を繰り返すため特効薬を作るのが難しいなどの話を聞いた。

 また、人間が生まれてくる過程で、おなかの中の赤ちゃんは生物の進化の過程をたどって最終的に人間として形成される。そして人間のDNAは長い間の進化(と言っていいのかわからないが)の過程で、色々な生物の遺伝子やウィルスに感染することで長くなったなどの話も聞いた。

 まだ地球に微生物(バクテリア)しか存在していなかったとき、互いに相手を食べて消化していたのであるが、あるとき、共生が始まったとも聞いた。つまり、取り込んだ他の微生物がそのまま体内で生き続けることによって、多細胞生物が誕生したという。人間の体内で言えば、人間とは違うDNAを持つミトコンドリアなどがその良い例と言えよう。まったく別の生物同士が共生することで、多細胞生物になり、進化してきたというのだ。その証拠に、動植物などの生命体は必ず同じような構造を持つ細胞を持っている。つまり、細胞という生命体が人類や動植物などの生命体の起源とも言えるのだ。(c.f.細胞説)

いずれにせよ、私たちが共に生きているということはこの世界の本質でもあるということを教えられたように思う。

2007年9月6日木曜日

キティーちゃんお守り


 寺めぐりの取材でこのごろはよく神社仏閣を参拝しているが、そんな中で、必ずといっていいほど目に留まるものがある。それは、「キティーちゃんお守り」。今まで行った寺社の社務所にはなぜかキティーちゃんお守りが・・・。しかもその寺社限定版のお守りなのである。

 神仏の加護を祈るお守りになぜキティーちゃんというキャラクターが付いているのだろう?
 そんな疑問を持った。

 そんな話を会社のwさんに話したところ、wさんが現在愛用しているシャープペンシルを見せてくれた。なんとそこにもキティーちゃん。地域限定版のシャープペンシルなのだそうだ。
恐るべし、キティーパワー!

 あまり言うとキティーちゃんの宣伝になってしまいそうだが、たとえば子どもたちがぬいぐるみをかわいがる姿に、人が人を思いやる気持ちが現れているのも事実であろう。そのような意味ではキティーちゃんお守りが子どもたちに渡され、そのお守りを子どもたちが大切にすることによって、神仏に向かう気持ちや人を思いやる気持ち、物を大切にする心などが育まれていくのかもしれない。

2007年8月30日木曜日

信号と相対的在り方

毎朝、烏丸通を北上して会社に向かう途中、気になっていることがある。
それは路上のマナーといったものだ。

通勤時の烏丸通はさすがに人通りが激しく、人も車も自転車もごった返している。
信号が赤になっても立ち止まろうとしない人々、後ろから突っ込んでくる自転車、赤信号を無視して走り抜けていく車など、けたたましい。

ベトナムから帰ってきたばかりのときは、車が一台も通っていないのに信号を守ることやヘルメットをかぶってバイクに乗ることなどが、不思議に感じられたが、今ではかえって日本のルールを守ることが楽しく感じられるようになった。今自分は日本にいるんだ、という実感が湧くからだろう。郷に入っては郷に従えとはよく言ったものだ。

人々が猪突猛進しているような姿を客観的に眺めるのもなかなかおつだなとこの頃は感じている。こんな喧騒の中で、しっかりルールを守って赤信号で立ち止まる一握りの人々を見て、何か安心感を感じたりもする。一人一人の行動に、それぞれの在り方・存在そのものがあふれ出ていて、このような相対的な在り方のすべてをひっくるめて世界の在り方なのだなと感じる。

2007年8月27日月曜日

ミクロの世界とマクロの世界

この世界がどうなっているのか、子供心によく考えたことがないだろうか。
 高校時代に化学の勉強をしたとき、大変面白いと思ったことがある。それは、原子の構造だ。陽子、中性子、イオンなどの素粒子は、まるで月が地球の周りを回っているように、もしくは地球が太陽の周りを回っているように原子核の周りを規則正しく漂っていると聞いた。さらに、それぞれの素粒子は、引力と斥力の両方の兼ね合いにより結合・離反しているのである。これはまるで、宇宙の働きそのもののようだ。
つまり、ミクロの世界とマクロの世界は構造的に大変よく似ているということは大変興味深い。
 このようなことは、実は、紀元前5世紀ごろにはギリシャ哲学で考えられていたことだという(もちろん実証はされていなかったが)。エンペドクレスという自然哲学者は、愛と憎しみという二つの力によって物質が離合集散することでこの世界は成っていると言ったそうだ。

そこで私は空想する。
 実はこの世界のさらに外側には、より大きな世界が存在し、その大きな世界の住人の、体の中の細胞などを構成する小さな原子こそが私たちの宇宙なのではないかと。もちろん、この考えは、無限遡及して、結論が出ない。
 しかし、私たちの存在とはいったい何なのか?と考えるときに参考となる、ひとつの大事な思索になりうるような気がしている。

2007年8月20日月曜日

存在(いき)ていること

 私たちは「生きている」。この「生きている」という現実を、存在論的な観点から表記してみると、「存在(いき)ている」と書ける。これは、私たちが他から独立した唯一無二の存在としてこの世界に存在していることを表したものである。もちろんこれは私の勝手な造語であるが、しかし私たちは日常、存在ということを意識しているだろうか。

 以前教師をしていたときに、子どもたちに生きることの意味についての作文を書いてもらったことがあるが、一人の子どもが「存在」という漢字を間違えて「尊在」と書いていた。私はその時、子どもたちの感性の鋭さに、ひどく心を打たれた。そして、「尊在」という言葉が私の頭の中を、その後何度も駆け巡ったことを覚えている。

 「一寸の虫にも五分の魂」と言われるが、「尊在」という言葉は、私たち存在するものすべてに対する、なんと慈愛に満ちた言葉であろうか。このような言葉に対する感性は、子どもたちの方が恐ろしく敏感である。

 私たち人間は生きているということを単に自分が存在すること(自存)だけで考えてしまいがちだが、実際には私たちは存在することによって、互いに影響を与え合っている。

2007年8月12日日曜日

感謝の言葉あれこれ

「感謝」という言葉は中国から来た言葉であろう。感謝という言葉をそのまま考えるとすれば、謝る気持ち、相手に対する申し訳なく、有り難いと感じる気持ちを感じるということであろうか。
しかし、おもしろいことに中国語の感謝はなぜか、謝々(シェシェ)である。謝るという言葉の繰り返しが中国では感謝を表すのだ。「ご迷惑をおかけしております。」ということなのであろうか。いずれにせよ、相手に対する何か申し訳なく感じる気持ちを表しているように感じる。
 考えてみれば、私たちは誰かに迷惑をかけてしか生きていけないような存在ではないだろうか。持ちつ持たれつ、お互いに迷惑をかけつつも長い旅路を助け合って生きていく。そんな気持ちが感謝や謝々という言葉の中に含まれていると感じられる。

 ところで、お隣の韓国では感謝の言葉はカムサハムニダで、カムサは感謝という漢字を表している。日本と同様、韓国では感謝と言うのだ。ベトナムはどうかというと、カムオン(感恩)と言い、恩を感じることを表している。また、英語のThankは、Think(思う、考える)と同語源で、自分が感じる思いを相手に表す言葉であろう。ちなみにこれはドイツ語も同じでダンケdankeも英語同様に、denke(思う)と同語源であると聞いた。

 いずれにせよ、感謝の気持ちを胸一杯に感じるということが、人間らしさの大切な一因なのではないかと思う。

2007年8月6日月曜日

参院選と平和記念式典

 今年も8月6日の朝が来た。朝から広島の平和記念(祈念)式典の様子がテレビで流れる。参院選で大敗した責任を問われている阿部首相も参列している。私はなぜか、ほっとした。
 先週行われた参院選では、民主党や他の野党が、自民党の揚げ足取りをするような形(もしくは自滅?)で勝利を得たのだが、参院選の内容は単なる勝ち負け論争、水掛け論でしかなかったように思う。また、阿部首相が参院選大敗の責任を取って総辞職しないことに対する批判が集まっていたが、この平和を願う日(そして8月9日、15日)に国民の代表として記念式典に参加していることにこそ意義があるように思う。もし辞職していれば、この日国民の代表がいないということになっていたであろう。だから私はほっとしたように思う。平和記念式典は、相対的・政治的な上下、貧富、優劣、勝敗といったものを超えたものでなければならない。国民が一丸となって平和を祈念する日でなくてはならないだろう。
 どちらが上か、誰が悪いかと自慢や非難をするのではなく、平和を実現するために、負の遺産を正の遺産として次世代に引き継いでいくために、我々自身の自己内省から始めるべきなのではなかろうか。

2007年7月31日火曜日

弁当にみる人生哲学

昼時というのは、大変面白い。人それぞれの特徴が見られる。
飲食店に行く人、コンビニ弁当を買う人、社員弁当で済ませる人、愛妻弁当を食べる人。
もちろん、日によっても違うであろうが、その人なりの事情や性格、家庭環境などを思い浮かべると楽しい。

 私が以前働いていた職場では、毎日愛妻(?)弁当を食べる初老の方がいらっしゃった。内容は前晩の残り物なのか、早朝に奥様が作られたものなのかは定かではないが、いずれにせよ、毎日、新聞を片手に、弁当を隠すようなしぐさで、必ず愛妻弁当を食べておられた。
味わっているのかもわからない、美味しいのかもわからない。しかし、確実に言えることは、私が知る限り、その方はこの年齢になるまで、毎日毎日、ずっと愛妻弁当を食べ続けているという事実である。そこに彼の人生の縮図とも言えるものが厳然と立ち現れてくるのである。これこそ愛だな、と私は感じた。

 たったひとつの弁当にさえ、日常を超えた世界が存在するのだ。

2007年7月30日月曜日

本当のカルチャーショック

 私は以前、一年半ほど外国留学していたことがある。留学に行く前は知人から、生活習慣や言葉が違う国に行くと、カルチャーショックを受けるというようなことを言われていた。確かに様々なカルチャーショックがあった。

 ナイフとフォークを使っての食事。肉食中心の食生活。毎日のように肉(特に羊肉)を食べるのには、まいった。肉食は日本人にあわないとつくづく思った。さらに、言葉に関しては、日本語と英語(後にベトナム語も)が混ざって奇妙な言葉を話してみたりすることもたびたびあった。

 面白かったのは、韓国人が多い英語のクラスで、私が発表のとき、誤ってホッチキス(英語ではステイプラー)のことをそのままホッチキスと言ってしまったときのことだ。韓国人のクラスメイトは笑いながら、「違う違う、ステイプラーだよ、シューセー」となぜかホッチキスという言葉を知っていた。後で知ったのだが、韓国でもホッチキスはホッチキスと呼んでいるという。さらに、彼らはなんとつめ切りのこともつめ切りと呼んでいた。しかも、彼らは、それらが韓国語であると思っていたのだ。韓国語の中に外来語として日本語が入り込んでいるということを、日本人の私も、韓国人のクラスメイトたちもそのとき知ったのだった。日本ってすごいなと少し誇らしげに感じたことを思い出す。

 日本から出て外国で暮らすと、日本人がいかにいろいろなことができるかがよく分かる。学校教育の水準がかなり高いと思う。日本人はそれなりのことが、普通にできると思う。自分たちでは気づいていないが、いろいろな教育を受けている。識字能力はもちろん、計算力、判断力など、実際にはかなり高度に教育されているのではないかと思う。なのにそれを応用できない、というのが日本人の性格であると思う。だいたいが遠慮して、「私にはできません」と言ってしまう。
 しかし、一歩外に出れば、字が読めない人、数を数えられない人、何の教育も受けられない人が数え切れないほどいる。そのような人々の中で暮らせば、日本人は様々のことを教えてあげることができるのだ。こういった事実も、日本人ってすごいなぁ、と感じたことのひとつである。

 実は私にとってのカルチャーショックは、日本に帰ってきて起こった。日本は異常に物価が高いのだ。日本は何を買うにも値段が高すぎると感じた。「日本人は日本人同士でだましあっているのではないか?」という疑問がわいた。さらに、日本で流れているCMが金貸しのCMばかりになってしまったことは大ショックであった。ダンスをするオネーサンたちのCMやきれいな目をしたご主人様と犬のCMなど、なぜこんなCMばかりになってしまったのだ?と愕然としてしまった(最近は宝くじのCMをよく見かけるが・・・)。日本はいったいどうなってしまうのか、そんな思いがよぎった。

 いずれにせよ、留学という体験を通して、日本人である自分を見つめ直すことができたと思う。

2007年7月23日月曜日

犀(さい)の角

 お釈迦様が教えた、修行者の心得に「犀(さい)の角」というものがある。私はこの教えを『知ってるつもり』というテレビ番組で初めて聞いたのであるが、次のような一節がある。

「音や声に驚かない獅子のように、網に捕まることがない風のように、水に汚されることのない蓮のように、修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め」(『スッタニパータ』より)

 日常のわずらわしさや人間関係にとらわれ、流されることなく、犀の角のように、自立・自存した者として、ただ独り黙々と精進しなさい、といったところであろうか。

 吉川英二氏の有名な小説、『宮本武蔵』の一場面で、武蔵が神仏にすがろうとする箇所がある。そのとき武蔵は、神や仏にすがることを拒絶し、自立・自存した存在として生きることを決意するのであるが、この武蔵の姿はまさに犀の角のごときものであろう。

 しかし、私たちはお釈迦様でも、武蔵でもない。他人の意見に流され、浮き足立ち、混乱する。目指すべき目的が見えなくなることもある。自分に自信が持てなくなり、不安や絶望をさまようことだってあるかもしれない。それが偽りなき私たちの姿であると言えよう。

 一個の人間、唯一の私として生きるとき、私たちはまさに、この無限に広がる宇宙という地平に投げ出された、無力な存在であるのだ。だからこそ、右往左往しながらでも、一歩一歩、私としての歩む道を踏みしめ、私のみが歩いてきた足跡を刻み、私のみが到達できるゴールを目指すのである。

 お釈迦様は生まれてすぐ、「天上天下唯我独尊(天の上においても天の下においてもただ私独りのみ尊い)」とおっしゃったと云う。これはお釈迦様のみに言われていることであるというよりも、この世界に存するすべての生命体に対して言われている言葉であると考えたほうがしっくりとくる。

 過去現在未来、時代を超え、また宇宙のどこでもなく「ここ」という場所に、ただ独り生きている「私」。この時空を越えた存在者としての一人ひとりの存在こそが、まさに尊いのである。不安や挫折、苦しみを背負いつつも、尊い一個の存在として、今、ここに存在している事実にこそ、目を向けるべきなのではないだろうか。

2007年7月10日火曜日

優しさの本質

 小学生のとき、担任の先生がよく「優しい人になりなさい」と教えてくださっていた。しかし、子ども心に感じたのは、いったい優しいって、どういうことなのか?ということであった。単に人に甘いだけではいけない、八方美人でもいけない、時には厳しさや注意をする勇気も必要だ・・・。未だにこれだ!という明快な答えは出ていない(し、答えが出るようなものではない)が、優しいという漢字とその他の連想から「優しさ」の本質を考えてみた。

 優しいという漢字は人偏に憂(うれ)うと書く。人が何かを憂う気持ち、人が人を憂う気持ちを表したものと言える。つまり、思いやりの心こそ優しさと言うことができるであろう。自分のこと、人のこと、家族のこと、将来のこと、日本のこと、環境のことなど、様々と思い巡らし、これでいいのだろうか、あれはどうなのだろうかと気遣う心こそ、優しさの根源となるのだ。

 親は子どもの将来を憂い、将来立派な大人となるよう躾(しつけ)を施す。躾とは「身を美しゅうする」の意であり、将来自分の子が大人になったとき、人様に恥じない立派な美しい大人となるために思いやりをもって育てる。ではなぜ美しいという漢字が含まれるのだろうか。

 面白いことに、美しいという漢字は「羊が大きい」と書く。丸々と太った羊が立派であり、貫禄があることからこの漢字ができたと聞いたことがある。他にも、「善」や「義」という漢字に「羊」が存在する。善であれば、「羊」とその羊が供えもとしてささげられる「祭壇(さいだん)」を象(かたど)ったものであり、人間が自分を超えた存在や大自然へと向かう謙遜こそが人間の善意の表れであると教える漢字だと考えられる。

 また、義という漢字であれば、飼っている「羊」を飼い主である「我」が担っている姿を象ったものと考えられる。そこから、私たちが自分に関わるすべての事柄や責任を担ってこそ正義が実現するということを教えているのではないだろうか。

 いずれにせよ、私たちが自分の「羊」(=自己の責任、自己の所有物や時間など)をどのように担い(義)、どのように犠牲にし(善)、どのように育てて(躾)生きているのかが問われているのである。

この問いへの私たち一人一人の応答の仕方にこそ、優しさの本質が隠されているのだと思う。

2007年7月3日火曜日

点と線と生きる意味

「線」とは「点」が集まってできるものだ。
一つ一つの「点」が集まって「線」になる。
一つ一つの出来事が集まって道になる。
人生は一つ一つの出来事、一瞬一瞬の出来事がつながって成り立つ。

一つの点だけにこだわれば、そこで道は止まり、
点がバラバラに散らばってしまえば道ではなくなる。

一歩一歩確実に歩む必要はあるが、
一歩一歩に気を取られすぎると道に迷ってしまう。

だから、一つ一つの点に集中しながらも、
まっすぐ進んでいるか、「全体」を見て方向確認する必要がある。
私たちが人生という一本の線を歩いていくために。

線が集まれば「文字」になる。
その文字がさらに集まって「ことば」をなし、「意味」が生まれる。

そこに私たちはいのちを与えるのだ。
自分自身の生を投入し、「自己」という意味づけをするのだろう。

ことばが生き、ことばが動き出し、いのちが生まれるのだ。


そうすれば、生きる。

2007年7月2日月曜日

ごまと銀メダル

 私は子供の頃から「ルパン三世」が好きである。そして、ルパンの絵であればすぐに、しかもかなり上手に描ける自信がある。ただし、ルパンのみで、次元や五右衛門、不二子ちゃん、銭形警部などのいわゆる脇役の絵はまったく描けない。子供の頃、必死に練習したのは、ルパンの絵だけであった。つまり、子供心には、ルパンという「ヒーロー」にあこがれ、脇役にはあまり眼が行き届かなかったと言える。
 ところが大人になって「ルパン」の面白さを考えてみると、その魅力はルパンを取り巻く名脇役たちにあるということに気づいた。ルパンを支える次元たちそれぞれのキャラクター、ルパンを捕まえることに躍起になる銭形警部。この名脇役たちは、それぞれ独自にルパンをも凌ぐ才能と実力を兼ね備えている。彼らがあってこそのルパンなのである。

 大学生のときの恩師がよく、「何事をするにしろ、金メダルではなく、銀メダルを目指してがんばるのが大切だ」とおっしゃっていた。オリンピックが近づくと、やれ金メダルだ、あの人は一番金メダルに近い、今年も金メダル最有力候補などと選手たちがもてはやされる。選手を叱咤激励する意味でも、国民をオリンピックという世界的行事に注目させるという意味でもそれはそれで効果があることなのであろうが、しかし、メダルだけが競技の目的ではないとも言える。オリンピックは「参加することに意味がある」と言われる所以であろう。
 私の大学時代の恩師が銀メダルを目指せといったのは、別にオリンピック選手になれと言っているわけではなく、「分相応の努力をしなさい」と言っているのだ。偉くなるため、ヒーローになるために努力するのではなく、自分自身の夢に向かって精進することにこそ意味があるということであろう。

 ごまを主食として食べる人はいないであろう。ごまはあくまでごまであり、食材の味を引き出す名脇役として食卓を飾るものである。

2007年6月29日金曜日

電車と時間の流れについて

 阪急桂駅から毎朝八時十五分発の普通電車に乗り、烏丸[からすま]へと向かう。途中、窓外に流れる景色を眺めながら、外で生きている人々の暮らしを思い浮かべたりする。

 オートメーション化された社会では、人間たちはまるでロボットのように無表情に電車に乗っている。女性たち、特に若い女性は、朝は疲れが取れていない顔つきで、目を閉じている方が多いように感じる。それに対して男性、特に年配の男性は、残された時間を惜しむかのように、立ちながらでも読書をする方が多いように感じられる。

 私は周りの目が気になってしまう性質[たち]なので、電車に入ってすぐ奥のほうに向かう。先日、帰りの電車で、奥の方に進んでいったところ、ちょうど目の前に座っていた男性が疲れきったように首を下に向けて眠っていた。起こしては悪いと思ったのだが、後ろから押されたため前につんのめり、ちょっとだけ、足を踏んづけてしまった。(こりゃいかん)と思った瞬間、こちらをにらんだのは、なぜか目の前の人ではなく、隣のオヂさん。(あれ?)と思い下を見てみると、隣の「オ・ヂ・サ・マ」は、満員電車にもかかわらず、隣で寝ている人のところまで、つまり私の足元まで足を投げ出していたのだった。私は「すみません」と小声で言った後、少しく苛立ちを覚えた。

 毎朝、毎夕、車内から必ず目に付く光景がある。それは、桂川の隣のため池で釣りをする人だ。アインシュタインでなくとも、電車に乗っているこの「私」もしくは車内の他の人々と、ため池で釣りをする釣り人との間には、「相対的な時間」が生じていることを知る。釣り人の時間の流れは、明らかに我々より遅く、のんびりとした、平和なものであろう。

 今朝は、最前列の車両に乗った。前方に見えたものは、列車ゲームで見たことのあるようなどこまでも続く線路道。車掌さんに見えている毎朝の風景は、何百人もの人の「時間」を乗せた、相対的な時間の流れの総体とでも言うべきものであることに、気がづいた。