2007年7月23日月曜日

犀(さい)の角

 お釈迦様が教えた、修行者の心得に「犀(さい)の角」というものがある。私はこの教えを『知ってるつもり』というテレビ番組で初めて聞いたのであるが、次のような一節がある。

「音や声に驚かない獅子のように、網に捕まることがない風のように、水に汚されることのない蓮のように、修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め」(『スッタニパータ』より)

 日常のわずらわしさや人間関係にとらわれ、流されることなく、犀の角のように、自立・自存した者として、ただ独り黙々と精進しなさい、といったところであろうか。

 吉川英二氏の有名な小説、『宮本武蔵』の一場面で、武蔵が神仏にすがろうとする箇所がある。そのとき武蔵は、神や仏にすがることを拒絶し、自立・自存した存在として生きることを決意するのであるが、この武蔵の姿はまさに犀の角のごときものであろう。

 しかし、私たちはお釈迦様でも、武蔵でもない。他人の意見に流され、浮き足立ち、混乱する。目指すべき目的が見えなくなることもある。自分に自信が持てなくなり、不安や絶望をさまようことだってあるかもしれない。それが偽りなき私たちの姿であると言えよう。

 一個の人間、唯一の私として生きるとき、私たちはまさに、この無限に広がる宇宙という地平に投げ出された、無力な存在であるのだ。だからこそ、右往左往しながらでも、一歩一歩、私としての歩む道を踏みしめ、私のみが歩いてきた足跡を刻み、私のみが到達できるゴールを目指すのである。

 お釈迦様は生まれてすぐ、「天上天下唯我独尊(天の上においても天の下においてもただ私独りのみ尊い)」とおっしゃったと云う。これはお釈迦様のみに言われていることであるというよりも、この世界に存するすべての生命体に対して言われている言葉であると考えたほうがしっくりとくる。

 過去現在未来、時代を超え、また宇宙のどこでもなく「ここ」という場所に、ただ独り生きている「私」。この時空を越えた存在者としての一人ひとりの存在こそが、まさに尊いのである。不安や挫折、苦しみを背負いつつも、尊い一個の存在として、今、ここに存在している事実にこそ、目を向けるべきなのではないだろうか。

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