2007年7月10日火曜日

優しさの本質

 小学生のとき、担任の先生がよく「優しい人になりなさい」と教えてくださっていた。しかし、子ども心に感じたのは、いったい優しいって、どういうことなのか?ということであった。単に人に甘いだけではいけない、八方美人でもいけない、時には厳しさや注意をする勇気も必要だ・・・。未だにこれだ!という明快な答えは出ていない(し、答えが出るようなものではない)が、優しいという漢字とその他の連想から「優しさ」の本質を考えてみた。

 優しいという漢字は人偏に憂(うれ)うと書く。人が何かを憂う気持ち、人が人を憂う気持ちを表したものと言える。つまり、思いやりの心こそ優しさと言うことができるであろう。自分のこと、人のこと、家族のこと、将来のこと、日本のこと、環境のことなど、様々と思い巡らし、これでいいのだろうか、あれはどうなのだろうかと気遣う心こそ、優しさの根源となるのだ。

 親は子どもの将来を憂い、将来立派な大人となるよう躾(しつけ)を施す。躾とは「身を美しゅうする」の意であり、将来自分の子が大人になったとき、人様に恥じない立派な美しい大人となるために思いやりをもって育てる。ではなぜ美しいという漢字が含まれるのだろうか。

 面白いことに、美しいという漢字は「羊が大きい」と書く。丸々と太った羊が立派であり、貫禄があることからこの漢字ができたと聞いたことがある。他にも、「善」や「義」という漢字に「羊」が存在する。善であれば、「羊」とその羊が供えもとしてささげられる「祭壇(さいだん)」を象(かたど)ったものであり、人間が自分を超えた存在や大自然へと向かう謙遜こそが人間の善意の表れであると教える漢字だと考えられる。

 また、義という漢字であれば、飼っている「羊」を飼い主である「我」が担っている姿を象ったものと考えられる。そこから、私たちが自分に関わるすべての事柄や責任を担ってこそ正義が実現するということを教えているのではないだろうか。

 いずれにせよ、私たちが自分の「羊」(=自己の責任、自己の所有物や時間など)をどのように担い(義)、どのように犠牲にし(善)、どのように育てて(躾)生きているのかが問われているのである。

この問いへの私たち一人一人の応答の仕方にこそ、優しさの本質が隠されているのだと思う。

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