2007年10月18日木曜日

信じる心

寺めぐりで訪れた伏見稲荷大社で感心したことがある。

それは、今まで当たり前のように思っていた稲荷神社のトレードマークの狐が白色で表されていたことである。稲荷神社の狐は実は白い狐であり、この場合、白いとは「透明」であることを表しているという。つまり、神の使いとしての狐は目に見えない存在なのだ。そう、つまり信心の対象としての神の使いなのである。



目に見えないものを信じるということは、普通に考えてみれば、ありえないことである。特に現代では目に見えないもの=存在しないものという図式となっている。



これはもちろん宗教的な見地を除けば当たり前のことなのかもしれない。しかし、以前書いたように数という概念は、実際には目の前に存在していない数という抽象概念を通してものを考えることであり、それを通して得られた結論を現実世界において具現化するというようなプロセスをとっているように思う。



ところが目に見えないものを信じているというのは、やはり日常茶飯事に行われている出来事でもあるのではないだろうか。



学校の友達に会う、会社の同僚と食事に行く、家族団らんのときを過ごす。当たり前のことのように考えられる日常において、私たちは無意識のうちに、

友達は自分を裏切らない、だって友達だから

 とか、

レストランで出される食事には毒は入っていない、だから安心して食べられる

 とか、

家族との幸せのときが続く、だって愛し合っているから

と信じている。しかし、いつ何時何が起こるかわからないのがこの世界の現実ではないだろうか。もちろん、心配ばかりしていたら逆にノイローゼにでもなってしまい、悪循環ではあるが、一瞬一瞬、実は私たちは不思議なほど安心して毎日を生きている。

これこそ、本当の意味での信じる力なのではないだろうか。



日常において当たり前のように私たちが持っている信じる心は、人間の本質的な在り方ではあるが、この世界を超えていると言って良いほど、不思議なもののように思う。



本当にこの世界は驚きに満ちているなぁ。

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