2009年5月25日月曜日

善悪判断についての考察

今日来てくださったお客様の中に、京都大学の院生の方々がおられた。

なにやら難しい話をしている模様。

すぐに私の妖怪アンテナ、もとい、哲学的志向性がくすぐられ、思わず議論の内容を質問させていただいた。

「カントの哲学に基づいて、人間の善悪判断や良心といったものに関して修士論文を書こうと思っているんです」との応え。やはり、私が欲するところの事柄を議論されていたのであった(笑)

つまり、文化的、社会的、宗教的、時代的な思想に左右されることなく、人間は善悪の判断が可能であるのかといった命題になるようである。


まずはその問いそのものに対して、超越論的観点からアプローチするのかどうかが問題となる。つまり、善悪という事柄そのものが、相対的な(何らかの対象と比較することによって結果が変わる)ものであるため、何らかの絶対者(絶対的判断基準)といったものを想定する(前提とする)のかどうかが問題となる。

ここから、法(canon=基準となるもの)的なアプローチも可能となるし、形而上学的・神学的アプローチも可能となる。また、人間理性というものが、事実善もしくは悪という概念を判断しうるかどうかという問題も出てくるだろう。

・・・などという次から次へと出てくる疑問や問題点が解消されなければ書けない内容であると思われる。


いずれにせよ、久しぶりに哲学的思索に火がついた出来事であった(笑)

2 件のコメント:

トマ さんのコメント...

哲学やりましたねぇ、昔ですけど。
デカルトとかジョン・ロックとか。
私は最終的には、カミュの不条理に落着きましたが。

Syu さんのコメント...

トマ様、お書き込み有り難うございます。

我が妻も私がこの話をしてすぐに言ったのが、「結局“無”でしょ」でした(笑)

結局は主体者としての個人(主体的判断者・存在者)が、納得のいく形で何らかの論理構成でもって、ある事象を良しとするか否かに関わることですし、善悪という相対的な判断で物事を捉えようとすること自体にも限界がありそうです(笑)
 もちろんカントの思想を元に修士論文を書くのであれば、カントの文献に当たって、彼独自の論理から結論を導き出すしかないのでしょうけど。

 普通に考えるとやはり共通善を達成すべく法的な判断基準なり、超越論的な規定を設定しないことには、結論が出そうにないなぁ・・・というのが正直なところです(笑)